波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

林和清 「林和清集」

全体を通して読んでまず思うのが、内にもっている時間の軸の長さが通常のひととは違う、ということです。

京都という歴史のつみ重なった土地での暮らしと豊富な教養が、
林和清氏の短歌の世界の土台になっています。
自分が生きている現世という時間だけでなくて、平安時代のような古典の世界から、現代、さらには来世まで時間のなかを自在に視点が移動しているのです。
前世や来世とのつながりが自然と出ていて、内在している時間の蓄積や濃密さがとても印象的です。

淡雪にいたくしづもるわが家近く御所といふふかきふかき闇あり

かの日も雪 初弘法に物乞ひの傷痍軍人見し記憶あり

 一首目、「淡雪」という儚くて美しい語と、「ふかき闇」である御所の対比が一首のなかで鮮やかです。
二首目、初句が記憶のなかに読み手をぐいっと誘いこむ役割を果たしています。1月に行われるという初弘法の日の記憶の片隅に居続ける「傷痍軍人」という痛ましさ、雪という厳しさが脳裏に広がります。

滅びに美を見出している感覚が随所に見てとれるのも特徴です。破滅や死のにおいが出ているし、恋もまたはかなく終わっていくもの、あるいは単なる戯れていどという描写が多いです。
でもとても格調高くて、歌のどこかに美があるので読んでいるこちらも否応なしに惹かれてしまうのです。

秋雷がひとつ鳴りまた森閑と一度は死んでみる価値はある

銀杏のにほひの占める午後ふかく人も国家も内よりほろぶ 

 「一度は死んでみる価値はある」とはずいぶんと醒めた言い方だとは思うのですが、前世や来世を行き来するような感覚の持ち主にしてみたら自然なことなのかもしれません。
「銀杏のにほひ」というと、なんとも不快な匂いを放っている様子を思い出すのですが、しだいに腐敗していく人や組織の内部を思うとたしかに言い得ている描写です。

見知らぬひと見知らぬままに抱きあへば不意にするどく螢がにほふ

君といふ入江があつたさみしさに夏の密使がおちあふあたり

 一首目、とても刹那的な恋の描写です。「螢」というすぐに尽きてしまう命の代名詞のような生物を組み込むことで儚さがより強く迫ってきます。
二首目、陸側にふかく入り込んだ海岸である「入江」に相手を例えるのが、さりげないけど巧いと思います。「君」「入江」「さみしさ」「密使」といったi音、「さみしさ」「夏」「あたり」といったa音の連続のおかげでとてもなめらかな点も美しいと思います。
脈々と流れている時間の厚みと、その一方でとても儚い恋の顛末、国や時代の終わりなど滅びとのバランスが惹きこまれる理由だろうと思います。

塚本邦雄(*正字が本来ですが、通常の漢字で代用しておきます)からの影響も随所にみてとれるし、比べて読んでみるという読みかたも面白いとは思います。

蝉丸忌、マリア・カラス忌、ヘボン忌と数へつつ目箒一斉発芽   *目箒=バジリコ

永日のルサンチマンや瓦斯火もて芍薬のきりくちを灼きたり    *瓦斯=ガス 

 私にとっては、塚本邦雄というととても近寄りがたい感じがしていた歌人です。作品が完成されすぎていて近寄れない感じがするというか、縁遠い世界のひとという感じです。ただ、この本の最後にある文章では最晩年のころの塚本邦雄の姿が描かれていて、興味深く読みました。
お弟子さんの目線から見た塚本像がとても新鮮でした。近寄りがたい存在の歌人に対しての印象をすこし砕いてくれる感じがして、ありがたかったです。

収録されているのが第一歌集「ゆるがるれ」と「現代短歌最前線下巻」で10年もの時間の経過があるので、後半に行くにつれて口語による表現が目立つように思います。

かつてなにか愛したといふ記憶だけエヴィアンは暗い石の味する

春といふ仕事に飽きてよこたはるやたらさびしい微熱のからだ

 もうすこし自分の古典などの教養のレベルをあげて、何度も読みかえしてみたい1冊です。