邑書林から出ているセレクション歌人というシリーズ、かなり前から愛読しています。
今回はそのなかから「横山未来子集」を取り上げてみます。
とりどりの紅葉捉へて凍りたる湖のごとくに生き来しひとか
霜月におもふ真夏の陽のごとくはるかなり眼をほそむる癖も
共にゐたる記憶のやうに頒ちあふ干し無花果のひなたの匂ひ
「横山未来子集」の作品を読んでいて感心するのが比喩の的確さと美しさです。
全体的に比喩、とくに直喩が多いです。
一首目、「とりどりの紅葉捉へて凍りたる湖のごとくに」という美しいけど厳しい風景に託すことで、相手の気性や人生をうかがわせるところ、
二首目、「霜月におもふ真夏の陽のごとく」得難いほどに遠い存在である相手、
三首目、「共にゐたる記憶のやうに」わけあうのが「干し無花果のひなたの匂ひ」というささやかさ、
ひとつひとつが的確で映像として思い浮かべやすくて美しいのです。
これは視覚でとらえた観察の結果と、詩や言葉というイメージとの結合の巧みさがよくうかがえますし、全体的に静けさのなかのイメージの豊かさを感じます。
君よりのただ一枚の絵葉書の霞める街をひき出しに持つ
もらった絵葉書の写真かイラストには霧にかすむ街がうつっているのだろうか、と想像してしまいます。
「ただ一枚」きりだからこそのかけがえのなさがしずかに伝わる歌だと思います。
絵葉書をおおっぴらに机に飾っているのではなくて「ひき出し」のなかにひろがっている空間の発端、というのがなんとなく秘密めいた感じもします。
絵葉書をとおして作られる空間の広がりが気持ちの深さを示しているようです。
沈め来しことばかすかに疼く夜余白まぶしき歌集をひらく
言えなかった言葉なのか、言ってしまって後悔した言葉なのか、自分の内深くで疼く言葉を抱えながらひらいた歌集の頁の余白がひどく鮮やかな印象をもつ、覚えがある感覚です。
ことば、というものが傷になることもあれば救いになることもあるので、その鋭さがひどく沁みる歌です。
やさしさとふ拒絶も知りぬガーベラの茎こまやかに水を弾けり
愛しみに手ざはりはなくセーターの背にて水に還りゆく雪
短歌では一首のなかで、景色と心情を組み合わせて対応させるという手法がよく使われます。
一首目、「やさしさとふ拒絶も知りぬ」で自分の内面を描き、下の句の植物の茎が水を弾く様子で景色を持ち出して一首のなかで情と景が組み合わさっています。
茎が水を弾くさまが「拒絶」という語の比喩的イメージになっていて、鮮やかです。
二首目、「愛しみに手ざはりはなく」という感覚と、
あっという間に「水に還りゆく雪」という景色の照応がひどく切ない感覚を呼び覚まします。
忘るとは解かるることと知りたるにみづから紐を結びなほせり
みづからの弱さを量りがたき日の帽子の縁にのこる花蘂
おほぞらを見上げず今日も過ぎしひとに告げむ杏の花の早きを
一首目、忘却とは「解かるること」、それに抗うように紐を結び直すという行為を行うことで小さな反抗の印にしているようです。
二首目、上の句をたっぷりつかってだんだんとクローズアップされる、「花蘂」という語がとりわけ強い印象を残します。
自分の弱さを率直には認識しづらいという時に目にする「花蘂」というものすごくささやかな存在が、内面に残された重りのように感じるのです。
三首目、おそらく毎日のように通行を見送る人がいて、その人は今日も上を見上げずに足早に歩いていくのでしょう。
3~4月にかわいらしい淡いピンクの花をつける杏、せかせかと歩いていくひとが気づかない、たっぷりとした時間の流れを主体がもっているのを感じさせます。
セレクション歌人は初期の歌集を集めて編まれているので、その後に刊行された歌集のなかで表現や文体がどのように変化を遂げたのかをゆっくり追っていくのも楽しいものです。
横山未来子さんの短歌も、長い時間のなかでどう変化していくのかゆっくり見ていきたいと思います。