波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2018年4月号 3

ありきたりで終わっている歌と、そうでない歌の差について

最近、よく考える。

毎日、大量の情報にさらされ、番組やCM、音楽や映像、

あらゆる刺激を浴び続けて

ちょっとやそっとのことでは感覚が驚かなくなっているなかで

短歌なんていう小さな詩形に何を詠むことができるだろう。

自分の感覚が、テレビやネットなどのメディアによって

形成されていて、ほんとのところ

自分の感覚などなかなか持てるはずもないのが

実体かもしれない。

もちろん情報は必要だし、大切だけど

一度慣れきった感覚をときには疑い、

読みたい対象や自分の内面にどれだけ迫ることができるのか、

最近よく考える。

立っていることも忘れて立っていたコンビニ前の自転車のように   福西 直美  P89

立っていることや歩いているときの動作を

いちいち意識して行っていることって少ないと思います。

ぼうっと立っている状態であった自分の姿に

ちょっと遅れて気がつく。

コンビニ前の自転車の列は、一時的にその場に止められただけの

存在であり、あまり意識して見られるような対象でもありません。

場所が「コンビニ」であることがポイントだと思います。

仮に学校とか、病院ではだめで、スーパーでもダメだと思います。

コンビニ・・・24時間明かりがつき、多数の商品やサービスを売り、

街のあちこちにいつの間にか増えている手軽な小売店

その存在の手軽さや画一的な外観を思うとき

この歌のなかでは「コンビニ」という場所によって

よりいっそうの希薄さが出てくると思うのです。

この歌のなかで、主体はふだんはほぼ意識しないだろう

あたりまえの動作を取っている自身を客観的に見ています。

ただ同時に自分自身を顧みることすら忘れがちになっている

状況なのかもしれない、とも思います。

同じ詩集二冊をレジに連れてゆく 大事な人は複数でいい     多田 なの  P109

同じ詩集を二冊、購入するつもりらしい。

なぜ二冊かはわからない。だれかにプレゼントするのかもしれない。

四句、結句に提示された

「大事な人は複数でいい」という語に惹かれます。

と同時にちょっと「?」って思います。

「大事な人」の中身は具体的にはどうなんだろう、

大事なら一人でいいんじゃないの?とかあれこれ考えます。

手にもった詩集二冊分の重さは

たぶん充実した重さだと思います。

「連れてゆく」という動詞は通常、物には使わないので

意識して選んでいるのではないか、と思います。

とすると、「詩集二冊」とは「大事な人」の象徴かもしれない。

「複数でいい」と言い切ることで

自らの決定とか意思を肯定していく姿勢が強く出ています。

姉に本を読んでもらいし居間の辺を更地にたどり車中より見る   佐々木 美由喜  P117

かつて暮らした家を更地にした後らしい。

いろいろな思い出があるはずですが、

主体が思い出すのはお姉さんに本を読んでもらった記憶。

たぶん好きな本のことなども断片的に思い出すのでしょう。

広々とした更地を見つつ、居間はたしかあの辺だったな、といった感覚を

「車中より見る」というところに距離感を感じます。

思い出のある家が消えて更地になってしまったあとの

あっけなさとかぽっかりむなしい感じを

あんまり説明せずに、

かつてのささやかな思い出のひとつを通して描くことで

作者ならではの思い入れやぬくもりが出た、と思います。

ためらいをかすか見せつつふり仰ぐあなたというひと 窓に見届く    中田 明子 P122

「ふり仰ぐ」という行為の主体は

だれなのか、ちょっと迷いました。

歌のなかで〈私〉がふり仰ぐのか、あなたがふり仰ぐのか、

どちらとも取れそうですが・・・。

私自身は、階下にいる〈私〉が

窓辺にいるあなたという(対象)をふり仰いだ、

あなたが窓にいる姿を見届けた、と取ったのです。

でも逆でも成り立ちそうなんですよね・・・。

どちらかはっきりする方がよかったのかもしれない。

ためらいがありながらもふり仰ぐ、ということは

それだけ相手に向ける気持ちが強いのでしょう。

窓という区切られたフォルムの枠があることで、

そして上と下に分かれた位置関係があることで

心理的な距離を暗示させます。

ネットにて十割そばの打ち方を検索すれど母に従う     山下 幸一    P135

わざわざ手間をかけてそばを打つらしい。

しかも蕎麦粉だけで作った、つなぎ無しの十割そば。

いまはネットで検索すればいろんな情報がずらっと出るし、

動画になっている料理レシピも多い。

でも結局は「母に従う」という落ちになり、

その話の落とし方になんだか納得してしまいます。

結局は身近な家族に聞いて、なんとかそばを打ったのでしょう。

現代の情報の調べ方から

結局は近くにいる家族からの教えに従うあたりが

ほのぼのしつつも、なんとなく示唆的です。

なんでもかんでもネットで調べられる、と思いがちですが

案外、身近なところに答があるような示唆を含んでいます。