波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

大辻隆弘 『景徳鎮』

結社「未来」の選者である大辻氏の第八歌集。

(大辻氏の「辻」は点ひとつですが、代用しております)

しばらく前からずっと読んでいて

やっとまとまったので公開しておきます。

 ■社会へのまなざし

 大辻氏は数多くの時評や評論も手掛ける論者でもあります。

歌集の前半には、東日本大震災ビン・ラディン殺害について詠んだ歌もあります。

私の少ない知識でこれらの歌を読みとくことはとても難しいのですが、

評論だけでなく、歌の中で自らの思考を

明らかにしておく姿勢は潔い、と思う面もあります。

「生き延びた僕らの使命」などといふ使命を帯びて生くるとは何   

 

グリーフ(grief)は遠く癒えゆく悲苦といふその遠さこそやすらぎなるを

 一首目、二首目は、東日本大震災に関する歌です。

生き残った者と死んだ者とを容赦なしに分けてしまった

震災のその後へのまなざしがあります。

「生き延びた僕らの使命」たしかにこういう言葉を

新聞かなにかで読んだ記憶があります。

あらためて「何」と問われると窮してしまう。

二首目の「とおくいえゆくひく」という「く」の音が

細かいリズムを生んでいます。

「遠さ」に焦点をあてて、

深い悲しみがそうやすやすと癒えないこと、

時間がかかることの意味を詠んでいるのだと思います。

Justice has been doneとし告ぐるその声の沈鬱にして響かふものを

 

受動態にて成されたる正義とは何か分からざるままに夜半を過ぐしつ 

 連作「正義」はウサマ・ビン・ラディン死去の際のニュースについての歌。

ついに殺害されたテロリストですが、どこか腑に落ちない心理がうかがえます。

「受動態にて成されたる正義」を遠くニュースで知る立場にいて、

その正体をつかめない自己を見つめています。

かつて大辻氏は、「未来」の時評(2001.11)で次のように書いていました。

私は、私の言葉が不謹慎な言葉であることを自覚している。

それでも敢えて言おうと思う。

私は、飛行機をビルに突入させたあのテロリストの棄私の精神のありように、

そして、それが厳然とした形をもってそこに屹立していることに、

あの夜、心を震わせてしまっていたのである。 

   「テロリストの背後にあるもの」『大辻隆弘集』 P115

 かつての時評などを踏まえて読むとき、

テロリストが殺害されたからといって

単純に喜ぶわけにもいかない心理がにじんでいて、

殺す側と殺される側の両方に思いを巡らせています。

 受動態とは、主語の省略を宿命的に抱えこんだ文法です。

正義の主格は誰なのかを突き詰めることを忌避してしまう心が、

誰の心の中にもあるのでしょう。

そしてまさに大辻氏は、自身の中にある忌避の心と

向き合おうとしているように感じられました。

 

 ■自然の描写

植物を詠んだ歌に美しい歌が多く、歌集のなかのめぐる季節が描き出されます。 

梨の花の白さが遠くまで届き暮れむとしたる丘陵はあり 

 

かぎりなき遠さを保ちゐるごとく水辺にひらく夕べの合歓は 

 

終りたる花の名残りのくれなゐを臀辺に立てて熟るる柘榴は   *臀辺=しりへ

 一首目では「遠くまで届き」という点がいいな、と思っています。

梨の木が一面に広く植わっているのかな、

広々とした花の色の広がりと夕暮れの色合いとが浮かびます。

 二首目は合歓の花だと思うんですが

淡いピンク色の花が扇状に開いている様子は幻想的。

「かぎりなき遠さを保ちゐるごとく」という比喩によって

ずっとずっと遠いままのなにか、だれかに思いが及びます。

 三首目は柘榴の実が実っていく様子です。

咲き終わった花から実へ移り変わっていく柘榴を色のつながりでとらえています。

「臀辺に立てて」で柘榴の実の丸いフォルムが浮かんできます。

 

■死にむかう父親

午後五時にこの室に来て息を聴くこの日常も旬日を超ゆ     *室=へや

 

 薔薇斑と言はばやさしく薔薇斑のごときが浮かぶ手を撫でてゐる    *薔薇斑=ばらはん

 

 死は可算名詞ではない数ふるを許すことなき無音の広がり 

 

いや死とは常に単数今ここにくたびれ果てて死んでゆく父の

 歌集中で大きな割合を占めているのが、父親の死に関する歌です。

父親がだんだんと弱って死に向かっていく様と、

それを傍で見ている家族の姿勢が詠われています。

近々必ずやってくる死を迎える気持ちと

仕事などの日常が並行して詠まれています。

 

一首目では父親の呼吸音を聞いている、そんな日常が過ぎていくことの重さ。

「旬日」は10日程度で、その微妙な日数が次第になじんでいく事を感じさせます。

 二首目の「薔薇斑」は調べたけどちょっとわからないのです・・。

手に斑点が浮かんできているけれど、

その手の模様をあえて「薔薇斑」と表現することで

父親や自分を慰めているのかもしれない。

 三首目や四首目からは、やすやすと数えることすら許さない死という現実を

間近で見ている主体の視線がうかがえます。

今までの父親との記憶をたどったり、

仕事のスケジュールを調整して父の介護をしたり、

といった回想と現実がないまぜになった状態で歌が続きます。

 歌を詠むことも作者にとっては父の死という現実を迎えて、

そして受け入れていくためのプロセスだったのでしょう。

 

 

一冊全体を通して、とてもたたずまいの美しい歌が多くて

長年をかけて研がれてきた刃物を見ているような厳かさがあります。