波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年9月号 1

眠りいる間に外れしイヤホンゆ車内にゴスペル滲みていたり   三井 修   P3

電車とかバスなど公共の乗り物のなかでのことかな、

とおもって読みました。

だれかが耳につけていたイヤホンが外れて、

乗り物のなかに「ゴスペル滲みていたり」という状況になっていた。

流行りの曲ではなくゴスペルという荘厳なイメージがいいな、と思います。

「イヤホン」という現代的なアイテムと

上代の格助詞「ゆ」の組み合わせも面白い。

イヤホンという小さなアイテムから外の世界に向かって

届く音楽のふわっとした広がりがある歌です。

あれくらいと半分の月指させり恋の終わりを子は話しつつ    前田 康子    P3

「あれくらい」とは何のことかな、と思って読んでいくと

年ごろの娘さんが母親である主体に失恋を打ち明けているシーン。

好きだったものの、終わってしまった恋のことを

「半分の月」に例えるところがとてもいい。

聞いている主体にも、自身の青春時代の思い出がいろいろあるわけで、

思いだしている部分もあるかもしれない。

「半分の月」を介して、親子の会話を描いているところが

シンプルに見えるけど、とても巧みだと思います。

見つめてる目のむこうにも羽ばたかせたいのに鳥をうまく言えない  江戸 雪   P4

誰かと対話しているシーンだと思います。

相手に伝えたいイメージがあるのだけど、

なかなか上手く言えなくて、伝わらないもどかしさかもしれない。

説明せずにイメージを描いている歌なので、

多少解釈が分かれるかもしれないけど

鳥の飛翔と相手との対話を結び付けていて、

これはこれで面白い描きかただと思います。

飯茶碗の縁にするどく親指をかけつつ食うを横目に見おり    永田 淳    P4

最初は食事中の息子さんの食べかたかな、と思いました。

もしかしたら定食屋さんとかで全く知らない人を見ているのかもしれない。

「飯茶碗の縁にするどく」といったところに

切羽詰まったような、焦るような食べ方が浮かびます。

主体はその様子を「横目に見おり」なので、

気にはなるけど、伺っている距離があります。

ふたたびを水になれざる水達のかたちであらうあぢさゐの花    大橋 智恵子  P6

たくさんの水滴があつまったような形状から

「水達のかたち」という表現はたしかにそうだな、と思いました。

紫陽花の雰囲気をよく伝えている歌です。

「ふたたびを水になれざる」というところに

ひとたび決まった生はもう変えられない、という重みがあります。