波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

吉川宏志 『吉川宏志集』

吉川宏志さんの歌集を順次取り上げていってみましょう。
今回とりあげる『吉川宏志集』には『青蝉』と『夜光』の抄が入っています。

おもに第一歌集である『青蝉』から取り上げてみます。
(『青蝉』の蝉の文字が旧字なので代用しています。)

■ささやかな発見

円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる    

夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること     

黒き鯉逃げて薄まる水ありき少年期より友の少なさ

一首目は縁日の金魚すくいの歌。
「掬われしのち金魚は濡れる」という把握が衝撃的だったと記憶しています。
水の中にいるときよりも、
掬われてから薄い和紙の上にいるほうが、
金魚は濡れている、ということをはっきり認識します。
でもこの把握はなかなか出てこない。

二首目は毎日のようにみる街の夕景。
暗くなってからだんだんと灯がともる窓が増えていく光景を
詠んでいます。
「夕闇にわずか遅れて」という把握も言われるとごもっとも、
でもなかなかこうは気づかない。

三首目は池を見ていて鯉が泳いで離れていった様子。
黒い鯉がすーっといなくなったことで水の透明さがわかる様子を、
「薄まる水ありき」という水の濃淡に転化している表現が的確で詩的。
下の句の「少年期より友の少なさ」という事実が描かれることで
逃げて行った黒い鯉の様子が、
集団のなかの人間関係のあり様と呼応します。

■相聞の繊細さ

あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ     

風を浴びきりきり舞いの曼珠沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ  

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった   

相聞歌には淡い情感や繊細な感覚がうかがえます。
一首目は「あさがおが朝を選んで咲くほどの出会い」という表現で
出会いの繊細さや不思議さを伝えています。

二首目はよく引用される歌。
上の句の曼珠沙華の様子、景と
下の句の感情の激しさという心理、情感の
組み合わせが一首のなかで機能しています。

三首目は初々しい決意がうかがえる歌。
恋人と並んでい歩いている道にそって植えられていた花水木。
「あれより長くても短くても」と表現されることで
気持ちを伝えるときの緊張とか決意が
読んでいる側に伝わります。

全体的に淡い印象があるけど、
描きかたがとても的確で
繊細な感覚を支えています。

■暴かれる自分

隠すのは秘めることより苦いかな銀杏の樹皮をぬらしゆく雨   
画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ
へらへらと父になりたり砂利道の月見草から蛾が飛びたちぬ     

「隠す」と「秘める」の違いは分かるようでなんとも言い難い。
「隠す」はすでにあるものをどこかにしまうこと、
「秘める」は最初から表に出さないまましまいこむこと、
とか考えたけど。
「隠す」ほうがなんとなく後ろめたさや背徳感が高い気がします。
「銀杏の樹皮」を濡らしていく雨の描写にうつることで
隠していることを暴かれそうな危うさを感じます。

比喩の巧みさが読みどころになっている歌が多いです。
「画家が絵を手放すように」は画家が絵を仕上げて
もう自分だけのものではなく、
だれか見てくれる人のものになった、ということだと思います。
絵が売れた、ということも考えたのですが
それよりも他者の鑑賞にさらされる、という考え方のほうが私はいいな。
売れようと売れまいと、自分一人のものだった絵が
他者の目に見られる形でまた価値や意味が変わっていく、ととらえました。
なにかが切り替わっていく季節である春の暮れ方、
主体は坂を上っていきます。

結婚して若くして父親になったけど、
なんだか実感がわかなかったのでしょう。
「へらへらと」というたよりない表現でわかる
父親になった現実のおぼつかなさ。
可憐な「月見草」から飛びたつ「蛾」、
蝶ではなくて「蛾」というところに
選択の面白さを感じます。
なんだか異質なもののはじまり、といったイメージを受け取りました。

    *

かなり前に集中的に吉川さんの歌集を詠んでいた時期に
「微細な点までよく見える人だな」と思っていました。
普通は見過ごしそうな感覚を巧みに詠んでいます。
感覚の繊細さを
鋭い観察眼で捉えて的確な描写が支えている、
というのが全体を見た時の印象です。

もう何度も読んでいる歌集なのに、
読むたびに巧さにびっくりする歌集です。

たぶんこれからも何度も読んで
そのたびになにかしら気づくことがあるだろうと思っていて
そんな1冊が嬉しいのです。