波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

塔2017年6月号 6

塔6月号には興味深い座談会が掲載されていました。

「今ここにある歌を読むことー短歌の時評・批評を考える」です。

時評を担当したことがある方5名で時評について語り合っています。

 

時評は難しいながら、面白いと思って読んでいます。

読者である私の立場からいうと、時評を読んでいくことで、

対立している意見やからまった考えを解説してほぐしてくれる、

私には難解な歌についてこんな魅力もあると示してくれる、

現在の歌壇の状況を概観してくれる、といったメリットがあると思っています。

時評の担当者は大変だろうな、と思いながら優れた時評があると、

複雑に見える問題を考えるヒントをくれるように思っています。

 

座談会のなかでは、東日本大震災以後に

何か意見を言うことや書くことに苦しさを感じる、

といった意見も出ています。

ときどき見る意見だし、なんとなくわかる気はします。

意見を言った途端にある立場が決まって、

それ以外の立場の人との間に断絶ができるというか、

もちろん前から立場が違う人同士の対立はあるものの、

いよいよ先鋭化してきた感じがするので、

なんとなく言いにくい感じがつきまとう気がしています。

そんな息苦しさを突破できるほどの意見の積み重ねをやっていけるかどうか、

たんに時評だけの問題でも無いとは思いますが。

 

それぞれのメンバーが「読み返したい時評」を具体的に挙げていて、

どれも示唆に富んでいます。

面白かったのは大森さんが

「素朴に、自分という位置から強く言葉を発したい、としか思わない。」(P61)

と言っている点でした。

大森さんの「塔」誌上の時評を読んでいるとなんとなくわかります。

自分自身がいいと思ったことをぐいっと押してくる感じというか。

時評を書く人がたまにいう「時評を書いているいことで記録を残しておきたい」

「なにか更新できるのではないか」という声もひとつの役割ですが、

大森さんの発想も面白いなと思います。

 

この数十年の間に、作品自体は変わっていっているわりには

批評のパターンがあんまり変わっていない、という点も興味深い指摘です。

特に「一首一首としての秀歌というものが取りづらい歌集」が最近出てきていて、

どう批評したらいいのか、評価に困るっていう話も出てきます。(P68)

例として挙がっているのが、

瀬戸夏子さんの『かわいい海とかわいくない海end.』

斉藤斎藤さんの『人の道、死ぬと町』といった歌集です。

一首一首優れた歌を引いていくタイプの

従来の批評のままではちょっと評価しにくい、

挑戦的なタイプの歌集にはどんな批評のモードで臨んだらいいのか、

手探りという感じです。今後、どんな風に評していくのか、とても気になります。

黒瀬氏の「一首一首の批評と一冊を批評するときの

問題意識がずれてくる場合はあるよね。

だから、その両輪を一つの評論のなかで活かせればいいんだろうけれど。

そういう批評言語の切り替えが、今後必要になってくるんじゃないかな。」(P69)

という発言に注目してしまいます。

 

そういえば、ひとつ思いだした文章があります。

『短歌研究』2015年1月号に載っていた吉川宏志氏の

「分断の時代の中でー二十年前の時評のすすめー」です。

「対話が成り立たない状況」を指摘した後に、

価値観の違うもの同士の対話の難しさにもふれています。

たとえば「二十年前時評」というのを行ってみてはどうだろう。

平成七年の短歌界では、どんな歌が話題になり、どんな議論がなされていたのか。

当時の総合誌を丁寧に読み返すことで、

なぜ現在の状況が生じてきたのかが分かってくるはずだ。

「分断の時代の中でー二十年前の時評のすすめー」吉川宏志 

『短歌研究』2015年1月号 

 

「時間」という軸のなかで作品や批評を読み直していくことが提案されています。

時評ももう少し振り返って読まれてもいいんだろうな、とも思います。

しばらく時間をおくと、また違って見えてくることもあるので

この視点は時評を書く人だけでなく

読む側も持っておいていいんじゃないかな、と思っています。