波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

吉川宏志 『読みと他者』

今回は吉川宏志氏の『読みと他者』を取り上げます。
この本は2009年から2014年にかけて発表された時評や評論をまとめた本で
時評の1回あたりの分量は短めで読みやすい本です。
ただ内容は短歌の読み、そして原発事故、自分と他者の関わりなど
非常に難しい問題を取り上げています。

本そのものは読みやすいけど
感想を書くのはややしんどい内容でもあります。
大事だな、と思った部分を引用しつつ
考えたことをまとめておきます。

()内の数字は引用箇所の頁。


1 原発と言葉

2011年に起こった東日本大震災について多くの内容が割かれている。
原発について賛成か反対か、
地震の被害をうけた当事者かどうか、
どのエリアに住んでいるのか、
といった立場や意見の違いがぶつかり合い、
場によってはなじり合う様子もしばしば見てきた。

原発の危険性を多少なりとも認識していたにもかかわらず、
何年ものあいだ、関心を失っていた
自分に対する情けなさが、まず押し寄せてきた。(71)

 

「不安をあおる」と言って言説を封じ込めることは、
権力を利することになりやすいのだ。
何を言っても許されると言いたいのではない。
しかし、言論のルールを守るのなら
自由に発言ができる場を、私たちは護るべきだろう。(121)

 


原発の危険性を知ってはいたものの、
傍観していたことについて吉川氏は率直に
「私も事故が起きるのを黙認していた側に居たのだ、
ということは認めなければならないだろう」 (71)
と書いている。
この率直な姿勢は貴重なんじゃないかな、と私は思う。
人間って自分の発言や姿勢ってなかなか反省などしない。

原発が「安全」といわれてきたから信じてきた、
または無関心でいた、これは日本のほとんどの人、そうだろう。
自分のなかでは関心はあるけど
いくら言っても関心を持つ人なんてそう増えないから
冷めてしまった、という人もいる。(←わたしはこのタイプ)

意見が対立しやすい問題ってすぐに敵か味方か、
という話になるんだけど結局、
言い合いになってなにも解決しないパターンが多くて
まじめな人ほどつかれてしまうケースってあるなぁ。

まだ批評では取り上げていないけど『燕麦』以降、
吉川さんの短歌ってやはり変わったと思う。
いい悪いでは簡単に判断できないのだろうけど、
だいぶ現実に踏み込んで歌う姿勢が鮮明になったな、と思って読んでいる。

高木仁三郎読み居し日々は遠くなりぬけっきょくは読むだけだったのだ

起こるかもと思っていたが起こらぬと皆が言うから あなたもでしたか
                
                   吉川宏志 『燕麦

なんというのかな、自分のなかにわきあがった迷いとか怒りとか
できるだけそのまま取り出すような感じだろうか。

2 対話が成り立ちにくくなっている状況

歌人の価値観が多様化し、自分は自分、
他人は他人、という感じになっている。
自分の価値観を、他者の価値観とぶつけ合う場が、
失われてきているのではないか。 (43-44)

 

現代では、会社や学校の中などで、社会問題について議論することは、
残念ながらかなり少なくなっているように思われる。
だからこそ短歌の世界で、イデオロギーを主張するのではなく、
あくまでも言葉による表現を読み味わいながら、
批評し合うのは重要なことなのだ。  (73)

対話が大事、といわれて否定する人はたぶんあまりいないと思う。
では対話する能力がある人がどれだけいるのか、
となるとどうにも不安になる。

ちなみに私のなかでは「対話=めんどうくさ・・・」ってなる。

対話や会話をしても相手を説得する、落ち着いて意見を交わすってなかなか大変。
しかも途中でキレて怒鳴りだす人とか(←男性に多い)
表向きは何も言わないけど影口いいふらす人とか(←女性に多い)
いろいろ見ていると疲れてしまうなあ、という状況ですかね。

原発のこととか福島の現状については
本当になんとなく発言しにくいなぁ、というのはずっと感じてる。
もちろん私も専門の知識があるわけでもないので
なにか断定できるわけでもないし、
でも関心はもっておかないといけないな、というあたりでうろうろしている。
別に原発のことだけでもないんだけど、
少数の意見だと叩かれるとか
批判的に言うと根に持たれるとか面倒な反応が多くて
冷静に対話する能力なんて全体的に
まだまだ培われていないだろうな、と何度も思ってきた。

下手な発言をすると叩かれる、というのを何回も見ていると
なんとなく意見なんか表に出すと嫌な思いをする、というのを
刷り込まれていく感じがして気持ち悪い。

そこで止まってしまうと良くはない、というのもわかるので
拙くても感想や評を出しておきたい、と思うのだ。

3 対話の意味

歌を読んだときの感動や意見を語り合うことで、
他者に触れるフィールドはさらに広がってゆく。
自己の読み方だけに拘泥せず、他者の価値観にも積極的に触れようとする。
そんな余裕のようなものが、短歌の読みには必要だ。(272)

いくら対話なんかしても他人とはしょせん分かり合えない、その通りだと思う。
ただ私も他者のあいだで話をしているときに
「あ、この人の考えも面白いな」「あ、この視線は私にはなかったな」
という感覚を感じることがたまにある。
必ずしも賛同したり共感したりする必要って別になくて
対話を通じて新しい発想や視線に出会うこともあるし
わたしのなかから新しい発想が引っ張られることもある。
こういった連鎖を続けていくことで多少なりとも
対話の意味があるんだろう。

他者とじっくり会話する機会って昔より減ったのかな、
うん、減ったとも思う。
気に入らない作品や他人は無視するのが一番楽だし。
私も何回も無視され、そして無視してきた。
ただそのときは楽であると同時に、
考えが違うもの同士で向き合う姿勢も同時に減ったかもしれない。

「タブーになってしまうのはよくない。
誰もが意見を言うことができる言語的な環境を作っていくこと」(245)
が大切、というのは私もそう思う。だがそれは容易ではない。
意見や立場の違いでずたずたになる組織を何回も見てきた。
短歌のコミュティでそんな場を作れるんだろうか。

全体的に読んですっきりするのではなく、
余計に悩みというかもやもや感が深くなる1冊だったんだが、
仕方ない。その気持ちを抱えていくことが大切なのだ。