波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

塔2016年5月号の感想

5月号の塔には評論「五年目の諸相―東日本大震災から五年の歌を読む」が載っています。
東日本大震災を詠んだ短歌を5年という時間を軸にして梶原さい子さんが論じています。

5年、とは短いようで一区切りついてしまう年月の単位です。
なにも解決はされないけれど、その現状のまま
しかし風化のはじまりくらいの時間かなと個人的には思っています。
震災に限った話ではないのですが、
しょせん被害を受けていない人にとっては
どんな悲惨な出来事でも
一時的な衝撃で終わることが多いものです。

梶原さんの評論では、冒頭で
現在の震災にまつわる短歌が激減している現状をさして、
「詠う必要がなくなった多数と、あり続ける(もしくは生まれ始めた)
少数が明確になったということにすぎず」とあります。
私はまぎれもなく詠う必要がなくなった多数として、
震災詠を見ている側にいます。


評論のなかで引用されている、
被災圏と被災圏以外の歌を見ていて、やはりその切迫感の違いは歴然としています。

被災した側ではじわじわと生活に原発事故の影響が出てきて、
逃れられない感じになってくるのが引用されている短歌でよくわかります。

日常のなかに震災や原発事故の影響が残っているので
切実にならざるを得ない、ということ。

一方で被災圏以外の短歌の特徴として、
震災は「3月にあった大きな出来事」として扱われていること、
震災が戦争など他の時事と並べて扱われること、の二つがあげられています。
日常と震災との距離が遠い、ということを考えたらそうなるだろうな、と思います。

時間の経過のなかで震災が「そんなこともあったな」位の感じになっていくのが
怖いと思いつつ、でも遠ざかっていく感じをどうにも止められないとも思います。

「詠う必要がなくなった」とは、震災を忘れていいということではないのだけれど、
立場や環境の違い、というものを認識せざるを得ないと感じます。

私には直接の震災詠ってできないし、たいしたものにもならないだろう。
安易にのっかって詠んでしまうと、後になって自分で嫌悪する感覚が湧いてしまう。

時間という篩にかけられて詠まれていく、残っていく作品がどんなものであるのか、
追っていくしかないなと思うのです。

6月4日のクロストーク短歌「あれから5年 東日本大震災の歌を再読する」には
梶原さんがいらっしゃるんですよね。
吉川宏志さんとどんな話をされるのか、聞いてきたいと思います。