波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

「追体験短歌史 1995年編」雑感

歌人の光森裕樹さんが運営なさっているtankafulという短歌のサイトがあります。短歌情報満載の貴重なサイトです。

さて、あんまりイベントには行かないタイプの私ですが、
(ろくに知り合いもいないのに、参加してもつまんなかったら、もういろいろ面倒くさいっていうかさ・・・)
tankafulの短歌史の勉強会にはいってみました。

以前、tankafulのアンケートに答える機会があって、そのときにたしか私も
「短歌史の勉強会とか開いてほしい」みたいなことを希望した気がします。
地味な内容ですが、希望を言った以上はやっぱり参加しようかな、と思いました。
せっかくデータ使い(仮称)の光森さんが来られて学習会を開くなら、行ってみたいなぁ、
きっと資料すごいんだろうなぁという感じで行ってみました。資料はやっぱり大充実でした・・・。

 

1995年というと・・・もう20年も経つのか。たまんないなぁ。
たしか当時、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が起こった年なので、
年始から破滅的な印象がありました。
その年の「短歌研究 短歌年鑑」の座談会の記事など読みながら
今、2015年にいる者の視点からどう見るか、大きな社会的事件が起こったときに短歌に詠むかどうか、など
興味深い内容の話を参加者同士でいろいろ語る機会を得ました。

20年前というと、私はまったく短歌には触れていなかった時期で、
自分で詠むことはおろか、読者でもなんでもなかったですね。
20年の歳月のなかでちょっとしたきっかけで短歌を詠むようになってから、
たぶん5年くらいは経っていると思います。
その間にいろんな短歌を詠んでいて、時事を詠んだ歌や
世の中の事件や流れを詠んだ社会詠にはいつも悩むことが多いです。
本人としては真剣に詠んだつもりでも
結局はテレビのニュース映像を言葉でなぞったような歌や
自己の主義を表明するためだけの歌にしかなっていないケースがあまりに多くて、
どれだけ意味があるのかなぁと感じることが多いのです。


私は東日本大震災のときに震災の歌を詠んだことがありました。
そのときは真剣に詠んだつもりでしたが
あとになって振り返ったときに、作品としては大したことないなぁって感じで
反省した時期もありました。
もちろん大きな事件などがあったとき、感情が大きく揺さぶられるので詠みたくなる衝動もよくわかりますし、
どうしても詠みたければ詠んで発表したらいいと思います。

ただ、作品を後になって見返す機会も必要なんじゃないかな、とも最近思っています。
感情のままに出てきた作品をただ詠みっぱなしではなくて、
自分の作品を、他者の作品を、半年後とか2年後とか、
ある程度の時間が経った後に振り返る視点も持てるようになると、
より冷静に見る姿勢みたいなものが自己の中に育つんじゃないかなと思います。

仮に無難な作品だけ詠んでいたら無縁かもしれないけど、
社会詠をしていくとなにかしら詠んで発表した以上は
批判されたり、叩かれたり、無視されたりいろんな反応がありうるので
その反応に向き合う必要や態度もいるんだろうなと思います。


せっかくたくさんの資料をいただいておきながらまだすべてに目を通せていないので、
とりあえず考えたことをちょっと投稿するだけになっていますが。
今後もこういう機会があればいいなと思います。

貴重な機会を作ってくださった光森さんには感謝いたします。