ゆっくり読んでいたら、次の歌集「午後の蝶」がでていますがな・・・。
「金の雨」はもともとは30首連作として編まれた作品がベースになっているので
ひとまとまりの世界に浸りながら読むことができました。
植物を詠んだ歌
日蔭なる草にとまれば植物のしづけさとなり蝶かくれたり
紅葉のきはまれるとき葉を垂るる花水木ゆゑこころ翳りぬ
塀を這ひのぼれる蔦の葉の赤をくるしきものとけふの眼は見つ
夜が昼へかはれるごとく蕾裂き反りかへりゆく沈丁花見つ
よく目に留まったのが植物を詠んだ歌ですね。短歌を詠む方で植物が好きな方、詳しい方は多いようですが。
一首目、日蔭の植物にとまったせいで蝶も蔭のなかに埋没した光景をしっかりとらえています。
「植物のしづけさとなり」という聴覚にからめた描き方になっている点がいいと思います。
二首目は赤々と色づく紅葉の時期に、花水木の葉の様子をとらえています。
花水木は春にかわいい花を咲かせますが、秋はやや暗めの色に紅葉しているんですね。
たしかに垂れるような状態の、赤みのある褐色といった葉をしています。
主体の目線や関心は花水木の紅葉の色よりも、それを支えている葉の様子に引っ張られています。
その様子に痛みを感じるのでしょうか。
三首目、蔦の葉の赤さは鮮やかで美しいのに、それが「くるしきもの」として主体の眼には映ります。
もちろん、主体の内面の反映の結果としてですが
景色をつうじて自己の内面の奥をのぞく視点がでています。
四首目。沈丁花、花びらがくるりと反転するかのように反り返ります。
強い香りを持つ上に、白と濃い紫の色の対比も面白い花です。
「夜が昼へかはれるごとく」という比喩が的確ですが、同時に思い切った比喩だと思いました。
小さな花の蕾に、1日の時間の変化を凝縮させているせいでしょう。
かなしみや死を予感させる歌
旧訳版選び読みたり時を違へひとりびとりに来む死おもひて
夢に詩を読みあげてゐつたたまれたる闇より闇のひらくごとき詩を
湖に向きてみな立てるとふ観音のかなしみをおもひ本を閉ぢたり *湖=うみ
深きより背の見ゆるまで浮かびくる魚の鱗のひかる夜なれ
人の死やかなしみを連想させる歌も多くあったように感じます。
新訳版もあるだろうに、あえて「旧訳版選び」という行為に静かな意思があります。
いつかだれにも来る死だけれど、そのタイミングはひとりひとり皆違う、という
当たり前なんだけど残酷な事実と向き合うような意思かもしれません。
「たたまれたる闇より闇のひらくごとき」という比喩で、
果てしない闇か夜のイメージを受け取りました。
動詞に勢いがあるので、映像が浮かぶようです。
なんらかの意味があって湖に向かっている観音、
役割を負うという姿のかなしみへの思念が
この歌にしんみりとした空気を与えています。
「深きより背の見ゆるまで浮かびくる魚の鱗の(やうに)ひかる夜」、
長い比喩を思わせる表現には私も影響を受けています。
水のなかからすっと浮かんでくる魚の鱗のひかりは
星がきらめく夜空のイメージとダブります。
読んでいてイメージが広がる歌
ころがりてそこに留まる柑橘の鮮やかにして昏れそむる道
かなしみに溺れつくしし日のわれに降りき鱗のごとき花びら
蜻蛉の水中をゆくごとく飛びひとのかなしみの消えぬゆふぐれ *蜻蛉=とんばう
うつむきて髪洗ひゐつ一群の馬ゆき過ぐるごとき雨の間
どれも体言止めの歌ですね。
一首のなかで広がるイメージがとても美しい。
一首目は柑橘の色味の鮮やかさと黄昏のなかの道の暗さが対比されています。
二首目の花びらはたしかに水中に散る鱗のようなイメージだと思います。
鱗という魚の表面を覆っているものが散っていくことと花びらが重なるのは
主体の内面で砕けていく感覚の映像なのだと思います。
三首目、「蜻蛉の水中をゆくごとく」とは不思議なたとえです。
おそらくすいすい、と軽やかに飛んでいるとは思うのですが。
「ひとのかなしみ」が長くながく残る時間に、
蜻蛉の軽やかさという動きが加わることでバランスを取っているようです。
四首目は「一群の馬ゆき過ぐるごとき」が幻想的な一首です。
髪を洗っている時間と、激しい雨の様子が比喩を使って接続されています。
現実の世界や生活そのものを詠うというよりも
目に留まった風景や自然と、自己の内面とのバランスの上に横山さんの短歌の世界はあるようです。