波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

真中朋久 「エフライムの岸」


今回は真中さんの第4歌集です。カバーのざらりとした質感が印象的。

■死と死に至るまでの歌

生者死者いづれとも遠くへだたりてひとりの酒に動悸してをり

冬のグラスに色うつくしき酒をそそぎふるき死者あたらしき死者をとぶらふ

死の間際に受け入れる罪サンチャゴは九月の春の雨濃くにほふ

渇すれば盗泉の水もあへて飲み生き残るのだと言へばそれまで

 「生者死者いづれとも遠くへだたりて」のうち、「生者」からも遠い位置にいるという認識は

孤独の深さを示しているのでしょう。
自分だって生きているのに、おなじ生きている人たちの側に属していない、ということを
さらっと詠んでいることに、この感覚の根深さを感じます。

二首目は前後から阪神大震災のことを振り返って詠まれているのがわかります。
歌集のなかでは12年が経過した時のことです。
初句7音、三句は6音、四句に大幅な字余りがあり、ぐねぐねとした屈折した雰囲気を作っています。

三首目、「サンチャゴ」はチリの首都かなと思ったのですが。
日本なら秋である9月に「春の雨」と詠んでいるのでやはり南米の都市の気候かなと思います。
「死の間際に受け入れる罪」とはなんなのか、受け入れることでやっと安心して死ねるのか・・・
春の雨が幕引きのようです。

四首目。生き延びるために内心では悪いことだとわかっていても行う、
世の中にはときどきそういうケースがあります。
「それまで」という結句がぶちっと断ち切られた感じを出していて現実の不条理の否応のなさを感じます。

■内面の心理を詠んだ歌

踏み絵なら踏んだらよいと思ひゐしは踏み絵を前にするまでのこと

シャガール展はやはり別々に行きませう地下鉄は今し高架にのぼる

乳鉢の裡にひろがる色を見つつ無心になんかなれなかつたさ

リコリスを鉢にそだてゐる青年はわれに似てわれを受け入れざりき

思いどおりにいかなかったこと、近いようで近寄れない相手、そんな歌もあります。

「踏み絵」として目の前に出されたのが一体なんだったのかはわからないのですが、
「踏み絵」を出された前と後とで断絶している考えを詠んでいます。
いざ精神に圧迫をかけられたときの負担や屈辱の切迫した感じを面白い視点で切り取っています。

二首目は「やはり別々に行きませう」の「やはり」がポイント。
別々に行くことになるんだろう、とうすうすわかっていたのでしょう。
だれか他者に言われたようなイメージで受け取りました。

乳鉢のなかでゴマでも擦っているのか、どんどん広がる色を見ているときに視線が自分の内面に向かいます。「無心になんかなれなかつたさ」はパッと投げ捨てるように響きます。

リコリス」は鉢で育てているということでヒガンバナ属の植物のことでしょうか。
その名前がとても明るい音を持っています。
青年と作者は似ているけれど、しかし「われを受け入れざりき」と冷静に見ています。

■天候や気象にまつわる歌

雨のあとの螺鈿のやうなみづたまりたましひに少し遅れ跳び越す

誘導雷防ぐ工夫を説きはじめし老技師の手のペンよく動く

明けきらぬ梅雨の雨域を引つかけて丹後間人に雨降りそそぐ

一首目はとても美しく、非常に好きな一首です。きらきらと光る水の様子が「螺鈿」という言葉で鮮やかに浮かびます。
「みづたまり」「たましひ」とひらがなで書かれたやわらかさが生きています。

二首目のように仕事にかかわる歌も多いです。
「誘導雷」「老技師」といった漢字のもつ硬質さと、こまやかなペンの動きをとらえる視線とが印象的です。

三首目の「雨域を引つかけて」が真ん中に置かれていることで下の句の情景がより鮮明になるようです。
雨や雷、天候や気象を詠みこんだ歌に独自の感覚が反映されているのかもしれません。

 

「エフライムの岸」についてはもう少し書きたいことがあるので、それはちょっと機会を改めてみます。