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波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

真中朋久 「重力」

歌集


今回は真中さんの第三歌集「重力」を取り上げてみます。

■実直さがでている歌

直言をせぬは蔑するに近きこととかつて思ひき今もしか思ふ

若きゆゑのみに言ひたることならずふかくかなしみてふたたびを言ふ

諦念のむしろあまやかにふくらんで午後の酸素は吸ひがたきなり

やがて来る沈黙のまへの饒舌かその年のきみのレポートの物量   *物量=かさ    

病むといふことをみだりに喩にもちひ病深かりし修辞と思ふ    

 一首目や二首目を見ているとなんとなく性格が出ているのかもしれないと思います。
言いにくいことを「直言」するのはけっこう大変なことがあるのですが
相手のことを思ってあえて言うこともありますね。
「かつて思ひき今もしか思ふ」過去の気持ち、そしてより強調されている現在の気持ちも
「ふかくかなしみてふたたびを言ふ」という逡巡しつつも実行するところも
他者とむきあうときの姿勢がでています。

自己の中の「諦念」がふくらんでくるのに伴って「午後の酸素は吸ひがたきなり」。
「あまやかに」が不思議なところです。
果実が腐っていくときあまい匂いをはなつ様子にイメージが重なりました。

四首目では、そう遠くないうちにやってくるだろう「沈黙」への予感が
「レポートの物量」の意味を見抜いています。静かだけれど鋭い視点があります。

五首目は短歌を詠むひとならちょっとどきっとするような内容です。
比喩にやたら使われる「病むといふこと」、その用い方にこそ
病的なものを感じ取っています。

■孤独や苦しさがある歌

鶏頭の花とりどりのかたちにてあるものはふかくひとを拒みゐし    

ながれぼしを拾ひにゆくと言ひ置きて夜道を線路まで来ました    

山はいま緑の炎につつまれてくるしき季に入りゆかむとす    

しどけなく白木蓮の咲いてゐる春のゆふぐれはくるしくてならぬ

うねうねとした不思議な形の花を咲かせる鶏頭。
厚みのあるフリルみたいな形状が、簡単には本心を見せてくれないイメージを思わせたのでしょうか。

二首目はちょっといつもと感じが違うなと思って目に留まりました。
「夜道を線路まで来ました」というとても素直な文章で結句が終わっているせいでしょう。

三首目は山が鮮やかな緑におおわれていく季節を詠んでいると思うのですが
「くるしき季」はその風景というより心情だと思いました。

四首目の無造作でだらしのない白木蓮の様子と、自己の様子がダブって見えます。
「くるしくてならぬ」というしぼり出すような言い方に抱えた感情の重さがあります。

■日常をかきとめた歌

レンズ豆のスープの鍋を火にかけて火にあたりをり火のこゑを聴く   

くろき傘をひろげて夜を歩むとき明日とはすでに昨日のごとし  

湯煎して膠をとかすゆきひらの小さきなべのうちの淡き湯気     

夕陽すこし雲よりもれていちにちの果てのあかるさがわたしをひらく  

この第三歌集のなかには仕事の苦悩や退職に至る経過が詠まれている歌もあるのですが、

ちょっとした日常を描いた歌も印象的でした。


一首目のなかに3回出てくる「火」、なんだかほっとするような歌です。
「レンズ豆」という具体的でかわいい形状の豆の使い方が効果的です。
「火のこゑを聴く」という結句により、静かな状況が浮かび上がってきます。

「明日とはすでに昨日のごとし」とは時間が巻き戻っていくような感じがあります。
明るいイメージはなくて、延々と過ぎた時間が先にも広がっているだけのような日々をとらえていると読みました。

接着剤になる「膠(にかわ)」を湯煎して溶かしているシーンは私には珍しい印象があります。
「ゆきひらの」「小さき」「淡き」の「き」の音がリズミカルな印象を作っています。
「ゆきひらの」は行平鍋なのでしょうけど、ひらがなのやわらかな感じがあたたかです。

「わたしをひらく」までの長い夕暮れの光景の描写が美しいです。
四句、五句のひらがなの多用にも、閉塞した状況から見えてくる解放感を感じるのです。


しばらくずっと真中さんの歌集をおってきました。
最近もまた新しい歌集が出ているので、その前に過去の作品を読んでおきたかったのです。
第四歌集、第五歌集を読んでから、またこれら過去の作品を改めて振り返るのも楽しみです。