波と手紙

小田桐 夕のブログ。塔短歌会に所属しています。         ゆふぐれはあなたのなかに沈みゆくとほき国だと気づいてしまふ

真中朋久 「エウラキロン」


今回は真中朋久氏の第二歌集、「エウラキロン」を取り上げてみます。

■自然をかきとめた歌

くれなゐの八重のさくらの過剰とも思ひき遠ざけしままに過ぎたり

あわただしく移る季節は窓のそとつながつたまますこし眠つた

浅きみづに背をひからせて真鯉ありき朝のことなれどこのくらき溝の

もう、しばらく包丁を研いでゐなかつた玉葱を切るやうに降る雨

 

一首目にでてくる八重桜はたしかにすこし目立ちすぎるようなイメージがあります。
華美な部分からは遠ざかったまま通り過ぎようとする心理が表れていると感じるし、
なんとなくそういう人柄なのかな、とも思います。

二首目の「移る季節」は単なる自然現象だけでなくて
自己をとりまくあらゆる出来事をさしているのかもしれません。
せわしない変化とは窓いちまいの隔たりがあるけれど
それでも「つながつたまま」わずかな睡眠をとっているところで、
外の世界とどうやっても関係を絶てないことがじわりと伝わります。

三首目は「朝のことなれどこのくらき溝の」の下の句の字余りも手伝って
朝見た光景ををずるずると引っ張っている感じです。

四首目がかりに、
「しばらく研いでゐなかつた包丁で玉葱を切るやうに降る雨」としたら
ある意味わかりやすいけど、元の歌のちょっと混乱した感覚が消えてしまう。
初句の「もう、」というひと区切りのつけ方といい
とても面白い味わいのある歌だと思います。

 

■家族の歌

ひとのはなし聞いてゐないとなじられて父と息子とひと括りなる

子がこゑに読むをし聞けばかな多きわが恋歌の下書きなりき

ゑのころを見るたびに摘むをみなごの父なれば手にゑのころ五本

 

家族を詠んだ歌も素朴なものが多いです。だんだんお子さんが成長している様子もうかがえます。

一首目の「父と息子とひと括りなる」でいっしょくたに叱られている様子だろうと思います。
叱っているのは奥さんからかな、と思ったのですが、どうでしょうね。

二首目で子供が読んでいるのが「わが恋歌の下書き」とは、聞こえてくるとちょっと焦りそうなシーンです。
「かな多き」のひとことがとてもいい。
かなが多いから小さい子でも読めてしまうんだな、とわかってなんだかほほえましい。

三首目は娘さんが摘んでいくえのころ草を手に持っているのでしょう。
「ゑのころ五本」や「見るたびに摘む」という具体的な動作や数の使い方で
そのシーンが浮かびます。

■内面の気づきがよく出ている歌

すみわたる秋の空気に触れてゐて月は裸体の肩のごとしも

考へもなく揺れてゐる葦でありわれはその根の泥とも思ふ

きみが呼んだやうな気がして席をたつこのまま消えていつてはならぬ

「裸体の肩」のように見える月は下弦の月か、ふくらみつつある上弦の月かもしれません。
澄んでいる秋の夜空との組み合わせがとても美しいです。

「人間は考える葦である」とはあまりに有名な言葉ですが、
それをふまえた歌はどうにも苦いイメージが出ています。
「考へもなく揺れてゐる葦」は周りの人のことかと思ったのですが、
自分のことは「その根の泥」という指摘が
他者のことを笑えない自分のありさまを冷静に見ていると思うのです。

「このまま消えていつてはならぬ」という強いよびかけで
切羽詰まった感じが伝わります。
静かな歌が多い中にこういう歌が置かれていると、より印象が強まるようです。


淡々とした生活の歌が多いようですが
些細な視点がやはり巧いし
わたしは好きなタイプの歌だなと思います。