波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2018年1月号 5

2月になってしまった・・・・。

でもがんばったら「塔」が届いたその月のうちに

全部、評を更新できそうかな、と思う。

日ごと夜ごと容易に不穏になる胸の森に一羽の飛ばぬ小鳥を    中森 舞  P173 

 不安とかストレスのせいで気持ちが不安定になりがちなのかもしれない。

上の句にちょっと言葉を詰め込み過ぎた感があるものの、

心の中の森と小鳥というイメージには惹かれます。

「飛べぬ」ではなく

「飛ばぬ」とわざわざ言っているので、

小鳥は飛ぼうと思えば飛べるのかもしれないけど、

あえて飛ばないのかもしれない。

ずっと心の中に飼っていて

安心するための要のようにも思えます。

二穴パンチ、のちぱらぱらとごみ箱に無数の月が捨てられてゆく   大堀 茜 P174

事務作業で使う二穴パンチと紙から

うつくしい想像を広げています。

紙に穴をあけた結果たくさんできる丸い紙は、

通常は、ただのごみ。

いらないものとして捨てられていく紙でありながら

同時に「無数の月」を見つけることで

日常のなかに詩を見出しています。

逃げてきたという母親よ逃げてきて正解なりき奉納煙火    瀧川 和麿  P179

母親がなにから逃げてきたのか

歌からはわからないけど、

主体はもちろん、事情を知っているのでしょう。

「逃げてきて正解なりき」と言い切っている以上、

逃げるしかない現実が背後にあります。

「奉納煙火」は新潟県小千谷市の片貝まつりの有名な花火だそうで、

写真で見てみたら、実に盛大で美しい。

つらい現実を忘れさせてくれるものとして

結句におかれているのでしょう。

路地裏に鈴を散らしているような金木犀はあかるい響き    椛沢 知世  P179

金木犀は小さなオレンジ色の花の多さと

その香りの強さで存在感がありますね。

「鈴を散らしているような」という把握がぴったりで

とてもかわいい。

「あかるい響き」という結句で

そこにだけ小さな音楽があるみたいに思えます。

塔2018年1月号 4

川の面に刺さりて鮎を釣る影を橋にもたれて数えておりぬ    永久保 英敏  P120

鮎釣りのために来ている人たちの

「影」に注目して、しかもその数を数えているという歌です。

人そのものではなくて影への着目、

数を数えるという行為になんだかこだわりがあります。

川のそばでずっと動かない影のいくつかを

じっと見ている、屈折した感じの漂う歌です。

届きたる差出人の月へんのきみの名前がいまも眩しい    萩原 璋子   P136

わりと前から知っている人なんだろうな、と思います。

おそらく久しぶりに届いた郵便物の差出人として

相手の名前が書いてあります。

名前のなかの「月へん」でとっかかりを作って

「きみの名前がいまも眩しい」と続きます。

たぶん、差出人にかつて憧れなど抱いたことを

名前を手掛かりにして思いだしているのでしょう。

海馬より深いところの夕焼けに立てかけられている一輪車    逢坂 みずき   P137

海馬は人間がものごとを覚えていくための脳の領域です。

海馬よりももっと深い部分ということは

本当に人生のなかの初期の遠い思い出、といいたいのでしょう。

夕焼けのなかの一輪車は

子供時代の象徴であり、

もう戻れない時間そのものです。

ときどきは振り返ってみる記憶なのかもしれません。

包丁をぬるりと拭いて店頭に肉屋の男顔を向けたり    小圷 光風    P140

肉屋の包丁なのでかなり大きな包丁だと思います。

妙な迫力があるのは

初句、二句の包丁の拭きかたにあるのでしょう。

「ぬるりと」とはなんだか生き物の血だけでなく

雰囲気を纏っている感じがしてなんとなく怖い。

男が包丁を拭いてから店頭に顔を向ける、

それだけの歌ですが

怖さを含んだ描写になっています。

研ぎたての包丁の刃に吸ひ付きつつ切られてゆけり柿の果肉は    高野 岬           (「高」ははしごの高)    P154

こちらも包丁の歌。

研ぎたての包丁を使うと、食材を切るときの

感触がちょっと違いますよね。

「刃に吸ひ付きつつ」という着目がとてもいい。

柔らかくて赤みのある柿の果肉が

刃物にぴたっとひっついて、でもカットされていく

プロセスを的確に描いています。

麦播きのすじごとにかかる蜘蛛の糸ひからせるため二歳は屈む    吉岡 みれい  P166

北海道に暮らす作者の歌です。

「麦播きのすじごとに」という描写がとてもいいな、と思います。

二歳の子供にとっては蜘蛛の糸

とても不思議に思えるのかもしれません。

角度によって光って見えるから

屈んでいるのでしょう。

きらきらした視線がうかぶ歌です。

塔2018年1月号 3

鏡台に食ってかかるごと顔寄せてわかくさの妻が紅ひいている    垣野 俊一郎      P72

とても面白い歌です。毎日のように見ている妻の仕草を

いきいきと描いていて、迫力があります。

「わかくさの」は「妻」にかかる枕詞。

「鏡台に食ってかかるごと顔寄せて」という姿勢の面白さと

「わかくさの」というみずみずしいイメージを含んだ枕詞の

組み合わせがよりギャップを生んでいます。

ゆるやかに曲がる水路の先に立つ鉄塔は今秋を束ねて    中本 久美子   P73

奥行きのある景色が美しい歌です。

ゆるやかな水路、その先の鉄塔、

秋の空気感、絵のような広がりです。

「鉄塔」という冷たい印象のある建造物が

ゆったりした歌のなかでポイントになっていると思います。

「秋を束ねて」は少し迷いますが

高くなっている秋の空に鉄塔がそびえていて

空を刺している感じかもしれません。

秋の日射しがあなたの背を高くして何の話をはじめましょうか  *背=せい  

               中田 明子   P100

夏とは違う、秋の日射し。

「あなたの背を高くして」に

めぐる季節のなかで「あなた」がちょっと変わっていく感じがします。

下の句の問いかけがとても素朴でおおらか。

あまり定まりのない

ゆるやかな会話ができる相手なんだろう、と思えて

その時間の流れがとてもきれい。

はだかよりはだしのほうが裸だな ちいさな爪から目が離せない    小松 岬  P104

幼いお子さんのことかな、と思うのですが

上の句の着眼点がとてもいいなと思います。

はだしでちょこちょこ歩いている幼い子供を見ていて

「はだしのほうが裸」。

ぷにぷにしていて、ちょっと危うくて

確かにそうかも、という説得力があります。

見守っている大人の視点でありながら

観察や気づき、愛しさなどが

力みなく詠まれています。

自販機は予報通りの雨にぬれ下一列のhotになれり   村上 春枝     P116

自販機にも季節の変化はやってきます。

この歌のなかの雨は、

秋のはじめの冷たい雨なのでしょう。

天気予報通りの雨、

秋になると変わる缶ジュースの温度、

いつも通りのことなんだけど

「下一列のhot」という切りとり方が面白い。

ささやかな季節の変化の表れを

ポイントを作って切りとっています。

これもまた定点のひとつつりざおを流れにかざす男のおりぬ   丸山 隆子   P117

「定点」は定まった位置の点。一定の場所とか地点を指します。

釣りをしている男性の様子を

観察している眼はとても冷静。

その季節になるときまって釣りを楽しむ人が

やってくるスポットなのかな、と思います。

主体はあくまでその様子を見ているだけで、

対象との距離を感じます。

川の流れという動きに対して

釣り人がしずかに糸を垂らす様子から

「定点」を見出したことが印象的です。

塔2018年1月号 2

みんなみの島を空より撃つに似てタルトレットをフォークで壊す  朝井 さとる  P28

上の句は北朝鮮によるミサイル発射をふまえて詠まれているが

下の句はささやかな日常のお茶の時間。

世の中でどれどほ驚異的な出来事や事件が起こっていても

一般の人間は、仕事だったり、他愛ない会話だったり

いつもの日々を変わらずに過ごしている。

でもそのなかで世界で起こっていることを無視もできないわけで、

一皿の「タルトレット」をまえに、

大きな出来事とのシンクロを見出している。

ささやかな時間のなかに、社会で起こっていることを巧みに取り込んでいます。

告げぬままわらってるきみを葉脈を透かす陽として見ていたかった    佐藤 浩子 P34

なにか大事なことや言いたいことがあるのかもしれないけど

「告げぬままわらってる」きみの様子は

たぶん儚いものなのでしょう。

「葉脈を透かす陽」は優しいようで、

葉をかよう細かい葉脈の一本一本を浮かび上がらせます。

「見ていたかった」という希望を含んだ結句が

望んだけど叶わなかったのかもしれない、

ということを感じさせて切ない歌です。

繁茂する国防論の草むらの白い帽子を目は追いかける    荻原 伸  P39

隆盛する「国防論」を生い茂る草むらに例えつつ

実は気になっているのは、「白い帽子」。

「白い帽子」とはいったい、なんであるのか。

草むらのなかにのまれてしまう

平和とか理想とかいくつかのイメージが浮かびます。

勢いのある草の色と

帽子の白色とがヒリヒリと鮮やかな対比を作ります。

「白い帽子」の”持ち主”の不在が、一首に鮮烈な印象を加えています。

雨音に耳そがるる夜半読みつげり秋草のごときふるき恋歌    永田 聖子   P48

「耳そがるる」という表現から

けっこう雨音が強いのかな、と思います。

雨音によって閉じ込められたような空間の中で

静かに読んでいるのは、「ふるき恋歌」。

「秋草のごとき」とあるので

しんみり、控えめなイメージも持ちました。

一首、一首、立ち止まるような読書なんだろうな、と

夜中の時間の流れを思います。

母に似し彫像のうなじ見るときに私の影を肩に乗せたり     北辻 千展            (しんにょうの点はひとつ) P53

見ている彫像が、主体の母親に似ていることから

かつて母の背に負ぶわれていた日を思いだしたのでしょう。

「似し」という過去の表現は「似る」で良かったと思います。

「私の影を肩に乗せたり」と続くことで

幼いころの自分自身を記憶から引っ張り出して

もう一度振り返っていることがよくわかります。

「彫像のうなじ」や「肩に乗せたり」といった描写で

彫像でありながら、ぬくもりのある描きかたになっています。

しづけさは遠さ 日暮れの鳥たちの整ひきらぬほそき一列   佐藤 陽介   P62

夕暮れのなかを飛んでいく鳥の群れの列をみたのでしょう。

列を作って飛んでいく鳥の様子を描きつつ

遠さと静かさを結び付けています。

遠さは主体と鳥の遠さであり、

鳥が目指す目的地までの遠さかもしれない。

距離のなかにある厳然とした感覚を静けさとして

捉えたのではないかな、と感じました。

 

塔2018年1月号 1

「塔」の表紙は半年ごとに変わります。

今回もおしゃれで素敵。

今年もなんとか「塔」の歌をいろいろ紹介できるといいな。

曼珠沙華見なかったといえば嘘になるしかし曠野はずっと続いた   *曠野=あれの

          吉川 宏志  P6

「見なかったといえば嘘になる」という展開が

思わせぶりな言い方です。

曼珠沙華を見たことは見たのでしょうけど、

なんだかおぼつかない記憶なのかもしれない。

あるいは見たことを認めたくないのかもしれない。

曠野は荒野のことかな、と思いますが。

現実なのか、夢なのか、いまひとつはっきりしないような

浮遊感があります。

死んでゐて当然とふが二度ありき一度は言へて一度は言へぬ    永田 和宏   P6

死んでいたかもしれない経験が二度あるという。

そのうちの一度は、他人に言うわけにいかないのでしょう。

経験のなかに、他人に言えることと言えないことが誰にでもあります。

言えない部分があるとは思いつつ、

たまにその言えない部分からくる影とか深みみたいなものも

感じることがあります。

蜜を吸ひ終へて花より出でしとき蜂は方位をしばしうしなふ    栗木 京子  P7

花のなかにうもれてしばし蜜を吸っていた蜂、

花の内側から出てくる時、

世界はどう見えているんだろう、と思います。

「方位をしばしうしなふ」で

暖かい陽気のなかのうっとりとした感じを受けます。

宵闇の 愛しきれるか はららけた朝顔の蔓かすかにゆれて    江戸 雪   P8

二回ある一字空けがとても鮮烈。

一字空けにはさまれた二句目は、初句と三句の間に挿入されたものだと解釈しました。

字空けを効果的に使うのはけっこう難しいと思いますが。

「宵闇」という夕方の薄暗い時間帯と

頼りない「朝顔の蔓」の様子の間にさしはさまれた

「愛しきれるか」という問いかけ。

二句目の強さが迫ってきて、自分に向かっての問いだと思いました。

率直な問いであるだけに、厳しさを伴います。

この夕べ支へて呉るる人が欲し否、否、光るしやもじが欲しい    松木 乃り  P17

素直な心情から始まったと思ったら、すぐに否定してしまいます。

「否、否、」という強い否定のしかたが強烈です。

しかも代わりに「光るしやもじが欲しい」。

毎回のご飯をよそうしゃもじはなじみのあるアイテムでしょう。

しかし光るというのは、どういうことだろう。

なにかにすがりたいような切羽詰まった感じがあって

気になる歌です。