波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年8月号 4

この道をムスカリ咲くよ踊るほどさみしい春もムスカリ咲くよ    吉田 典   P112

「踊るほどさみしい」という表現がとても印象的。

春だからわくわくするような気分になるかというとそうでもなく

むしろソワソワして寂しいくらいという。

ムスカリは葡萄の房みたいな形で、青い色がきれいな花。

道に沿ってたくさん植えられているのかもしれない。

落ち着かない気持ちの表現として

おもしろい描きかたをしています。

階段はちひさく螺旋を描きつつ雨音の濃き二階へつづく    石松 佳     P113

「雨音の濃き」と言われると、確かにそうかもしれないと思います。

階段で二階に上がっていくときのちょっと不安定な感じが出ていて

ちょっとしたスケッチのような歌になっています。

里にまた緑のひかりは巡りきて高さ違える水張田の空   *違える=たがえる    岡村 圭子   P114

水張田は苗を植える前の水を張った田んぼを指すらしく

空や風景を映して鏡みたいになっています。

また美しい景色を見る季節になったことがさりげなく詠まれています。

「緑」「巡り」「水張田(みはりだ)」といった

マ行の音+「り」の音がとても心地いい。

「高さ違える」という把握がとてもよくて

田んぼの位置の高低によって

映っている空の位置に差が出ているのでしょう。

的確な描写によって毎年見ている風景を切りとっています。

自分から言い出す誕生日のように降り始めた雨だから濡れたい     鈴木 晴香    P 117

相手から興味をもって聞かれたのではなく、

「自分から言い出す誕生日」というのは

なんともしっくりこない感じが残ります。

そんな比喩で詠まれた雨は

たぶん望んでいる天気とは違うのでしょう。

「濡れたい」という結句まで詠んだことで

雨に打たれる悲しみ、冷たさまで伝わります。

嘘ならばさいていな嘘、嘘でないならさいていなひとだよ四月     田宮 智美   P122

一連を見ていると、どうも転勤で自分から離れていった人に向かって

言っているようです。

果たして言われた言葉は嘘だったのか、そうでないのか、

確かめることはできないのかもしれません。

「さいてい」とひらがなで2回使われているところが

とても強い印象になっています。

「四月」で終わる結句も効果的で

人間関係が変わっていく季節の

一コマとして、とても印象深い歌です。

寄り道が時間つぶしでなかつたころ渋谷の街はラメの輝き       木村 珊瑚     P 127

寄り道をしていたころ、渋谷に行っていたみたいですが

主体にとって決して「時間つぶしでなかつた」といいます。

たしかに寄り道だったとはいえ、

ちゃんとした意味があったことを懐かしんでいるようです。

細かい説明をせずに「ラメの輝き」としたことで

その場所、時間、思い出などが

キラキラした輝きを纏って見えます。

塔2017年8月号 3

被ったり脱いだりぱたぱた煽いだり楽しくなってくるヘルメット     阿波野 巧也  P60

働くようになって、ヘルメットを被ることがあるらしい。

現場の詳しい状況は一連からはあまりわからないけど

ヘルメット、という無骨なアイテムを詠みこんで

ちょっとコミカルに描いています。

被る、脱ぐまでは思い浮かぶけど

「煽いだり楽しくなってくる」というあたりに

軽いユーモアがあって面白い歌です。

ご愁傷さまです、の中に秋はありあなたはゆくのかなその秋を    安田 茜     P71

亡くなった方がいるから出てくる

「ご愁傷さまです」という言葉のなかにある「秋」に注目していて

言葉遊びの楽しさを含めつつ「あなた」への気持ちが込められています。

定型の言葉のなかの細部への注目から

相手への気持ちの寄せ方が自然で、

トーンは軽やかだけど、重層的なつくりになっていて巧みな歌です。

速達はいまごろ奈良を通過して海が右手に見えてくるころ    森永 理恵     P83

奈良という地名のあとに「海が右手に見えてくるころ」という点が

面白い歌です。読んでいる最中に

ぱっと景色が広がります。

速達の配達のルートに思いをはせながら

主体も一緒に移動しているような臨場感や楽しさがあります。

出る杭は打たるるという格言を知らぬ若竹の煮物はうまい    坂下 俊郎     P109

出る杭は打たれる、という言葉通り、

目立った振る舞いをすれば弊害は多いもの。

人間の社会でずっと言われる格言を筍にあてはめて、

まだ新しい間に収穫されて煮物になると

苦難を知る暇すらなかったのか

柔らかくておいしい、という発想へつなげている点が面白い。

ちょっと皮肉っぽい視点も感じます。

 

塔2017年8月号 2

はつなつの薄いカーディガンくたくたと椅子の背にありときどき落ちる     小林 真代 p29

夏用のカーディガンなので、かなり薄手だと思う。

もう着込んでいてくたくた感のあるカーディガン、

椅子の背にかけているけど、たまにすべり落ちるんだろう。

生活のなかになじんだアイテムを描写しているだけだけど

日常の空気感みたいなものが見えてきて、

気になる一首でした。

みたらしのしの字のしつぽうねうねとのばす暖簾に夜店はじまる   清水 良郎  P30

三句目までの描写で

「し」という文字のうねうねした感じがよく出ていて面白い。

ひらがなが多くて余計に

長ったらしい感じが出ています。

暖簾というアイテムに注目して細やかに描くことで

夏の夜店の様子を描いています。

憎むとは忘れないことクスノキの落ち葉は庭の四隅に積もる  紺屋 四朗   P36

深く憎んだ相手は簡単に忘れないもの。

いつまでも内面に残っているわだかまりから、

庭に積もる落ち葉へと転じています。

「四隅」という提示がよくて

あまり注目されることのない庭の隅っこに

積もる落ち葉を描くことで

心の隅にずっとずっと残る感情の深さを伝えています。

と同時に「クスノキ」というカタカナの存在がよくて

これが「楠」だったらちょっと硬すぎたかもしれません。

初めての看取りにのぞむ中島くん「怖い?」と訊けば「くやしい」と言う   山下 裕美  P42

介護施設で働く作者の歌のなかには、

いつもどこかゆったりした感覚があります。

実際にはとても忙しいし、しんどいことも多いはずですが。

この歌のなかでは職場の後輩にあたるだろう「中島くん」を描くことで

仕事のなかのワンシーンを描いています。

看取りという特殊な場面に臨む心境を

短いセリフのやり取りで描いていて

職員同士の感覚の差や関係を伝えてくれます。

雨傘のまあるき視野の池の辺を燠火の色に鯉が浮き来る    清水 弘子   P42

主体が雨傘を差しているので

視野が傘のかたちによって遮られている。

その限られた視野のなかにすいっと鯉が浮かんでくる。

しかも「燠火の色」だという。

雨降りの日の暗めのトーンの風景のなかに

浮かんでくる、炭火のような色をたたえた鯉。

色彩の対比が美しいうえに、初句から二句の視界の限定で

自分だけの世界、といった提示になっていると思います。

午後二時の参院予算委員会のガラスの水差しの水滴白し     石原 安藝子  P44

国会中継を見ているようですが

「ガラスの水差し」に注目した点が面白い点です。

さらに「水滴」という微細なものを見ることで

通常は入り込むことのない国会内部の世界に迫っています。

旧タイプを知らねど帰り道に食う新チョココロネは励ます我を     相原 かろ  P56

なんの旧タイプかな、と思って読んでいくと

「チョココロネ」の話。

パンの味がリニューアルしたらしいけど

じつは古いタイプを知らない。

知らなくてもチョココロネは美味しい。

大仰な感じからはじまって結句までの着地が面白い。

「励ます我を」とわざわざ倒置にしていることで

強調している工夫があります。

塔2017年8月号 1

まだ暑いよー・・・

塔8月号から見ていきます。

夏つばき地に落ちておりまだ何かに触れたきような黄の蕊が見ゆ     吉川 宏志 P2

木の下に落ちてもまだ存在感のある夏つばき、

たっぷりとした筆のような黄色の蕊は印象的です。

「まだ何かに触れたきような」が興味深い。

夏つばきの一輪にはまだ美しさや生命力が

残っているように感じます。

地面の色、白い花びら、黄色の蕊といった

色彩が鮮やかに浮かびます。

世の中はなんでこんなにさびしくて私がひとりスーパーにゐる  永田 和宏  P2

河野裕子さんがなくなってすでに7年経つ。

「なんでこんなにさびしくて」という無防備な言い方が

かえってしみじみと悲しい。

「私がひとり」という言い方は

なんだか舞台にたつ役者のような描きかたです。

「スーパー」という毎日の生活のために買い物をする場所という

身近な場所の選択に、とても実感があると思います。

何度目の春でしたっけ筍とセロリをトマトソースで和えて   山下 洋  P3

食べ物の色彩の美しさが印象的な歌です。

筍の白っぽい色とセロリの緑色と

トマトソースの赤色がぱっと浮かんで、

楽しい食卓のシーンが浮かびます。

「何度目の春でしたっけ」は

親しい方への呼びかけと取りました。

たぶんもう長く一緒に過ごしているので、

何度目の春かわからないくらいだけど

今年も同じように春の野菜をトマトソースで和えている、

そんなシーンだと思います。

名を呼べばはいと応へて立ちあがる四月十日のパイプ椅子より  梶原 さい子  P7

入学式かな、と思いますが

「四月十日のパイプ椅子より」がいい表現です。

その生徒にとっては一度きりの四月十日、

ちょっと緊張感のある日を描いています。

百本の白きワイヤー架かる橋春の河口にハープを奏づ   村田 弘子   P14

橋にワイヤーが多くかかっている光景は見たことがありますが、

ハープに見立てるとはダイナミック。

無機質な橋のワイヤーから

美しい音色を奏でる弦楽器に転化する

発想が楽しい一首です。

アン・シャーリー初の誂えのドレスなら葡萄色とおもう春の山路に  山下 泉

 *葡萄=えび   P14 

 

赤毛のアン」に出てくる主人公アン・シャーリー

想像力の豊かさを持っている女の子でした。

憧れのドレスには色も形も大変なこだわりがあったはず。

「葡萄色」という深みのある赤紫色にも

きっと楽しい想像をふくらませたろうな、と読んでいて嬉しくなります。

「春の山路」には「葡萄色」を思わせる植物があったのか、

自然や季節の美しさからアンの「葡萄色」のドレス、

しかもはじめて誂えるドレスへの発想のふくらみが楽しい。

吉川宏志 『夜光』

吉川宏志氏の『夜光』は第二歌集。

年齢としては20代後半にあたります。

若くして結婚し、父親になったことで子供の歌が増えてきます。

住んでいる京都、ふるさとの宮崎、

家庭、仕事、作者をとりまく環境が

静かに描かれています。

■父であることの不可思議

陰暦の八月みたいにずれている二十五歳の父であること         21

 

二十代終わらむとしてふたりめの子を抱くいつのまに熟れしかな      141

 

鳳仙花の種で子どもを遊ばせて父はさびしい庭でしかない          174

20代で父親になっていまひとつ実感がわかない、

まだしっくりこない、といった感じの歌が時々、出てきます。

一首目の「陰暦の八月みたいにずれている」とは

今の暦と陰暦の違いからくるちぐはぐ感を使っていて、

面白い感覚です。

陰暦の8月はいまの9月半ばくらい。

もっとも暑いイメージの8月と、

実際には秋を感じる9月のちぐはぐな感覚を

心理の描写に使っています。

二首目には2人目の子供を得て、いつのまにか進んでいる時間を

抱えているような不思議さがあります。

三首目に出てくる鳳仙花には種が一気に弾ける激しさがあります。

鳳仙花の種で無邪気に遊んでいる子どもの

その対比として「父はさびしい庭でしかない」という

寂寥感があるように思うのです。

■若き日の終わり

若き日の行き詰まるころ甃道にほおずき売りの声はひらめく  *甃道=いしみち    68

 

学生の我はいずこの草むらに消えてゆきしや梅雨の三叉路      101

 

物音の透きとおるまで疲れおり夜更けの卓に梨の皮濡れて     149

かつて描いていた理想とか希望とは

違う現実が日々として続く面もあるのでしょう。

会社に勤務して社会人として働いていると

学生時代とは違う現実を毎日、生きることになります。

「若き日」「学生の我」がだんだんと薄れていくことを

詠んだ歌がときどき見受けられます。

20代なので、まだ学生のときの記憶もわりと残っていて、

でもそれがもう消えていく時期だったことが

静かに歌われています。

三首目の「物音の透きとおるまで疲れおり」といった

疲労の強い歌もよく出てきます。

音が「透きとおる」とは尋常でない感じ。

聴覚でとらえる音を視覚でとらえることで

普段とは感覚のズレがあるように見えます。

細く剥かれた「梨の皮」のうっすら半透明な感じが浮かんで

主体の状態と呼応しています。

■故郷に帰るときの視点

ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る      19

 

あみだくじ描かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて   *描かれし=かかれし   22

 

肺を病むひとりを囲みふるさとは深く欠けゆく月かとも見ゆ       186

吉川氏の故郷は宮崎県。

京都から帰省した際の歌も多いです。

進学、就職で離れた故郷を度々訪れたときには

すでにほかの土地に出たため

外部からの視点が加わって、視点の重なりがあります。

一首目の「日ごとに出遭う夕まぐれ」は

住んでいないから気づく視点かもしれない。

二首目は故郷とは違うかもしれないけど、

「あみだくじ描かれし路地」という人の暮らしが根付いている場所を

旅の帰りに歩んでいることで、外部の者の視点を連れています。

三首目は祖母の死をうたった一連。

折に触れて帰るふるさとでの時間は

かつて過ごしていたころの記憶と混ざって

作者のなかに二重の時間を作るようです。

 

    * 

全体として、とても静かで端正。

学生時代からの距離、父や社会人である現実との違和感、

遠く離れた故郷とのバランス、など

自己を取り巻く環境の変化がいくつも重なっています。

 

父になること、子供が育つことと

若き日々や学生時代の感覚が薄れていくことは

表裏一体のもの。

さらに京都と宮崎という二つの土地をもつことで

時間や風土に交差が生まれています。

 

「夜光」という連作など

社会詠が登場してきていることも特徴です。