波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

吉川宏志 『夜光』

吉川宏志氏の『夜光』は第二歌集。

年齢としては20代後半にあたります。

若くして結婚し、父親になったことで子供の歌が増えてきます。

住んでいる京都、ふるさとの宮崎、

家庭、仕事、作者をとりまく環境が

静かに描かれています。

■父であることの不可思議

陰暦の八月みたいにずれている二十五歳の父であること         21

 

二十代終わらむとしてふたりめの子を抱くいつのまに熟れしかな      141

 

鳳仙花の種で子どもを遊ばせて父はさびしい庭でしかない          174

20代で父親になっていまひとつ実感がわかない、

まだしっくりこない、といった感じの歌が時々、出てきます。

一首目の「陰暦の八月みたいにずれている」とは

今の暦と陰暦の違いからくるちぐはぐ感を使っていて、

面白い感覚です。

陰暦の8月はいまの9月半ばくらい。

もっとも暑いイメージの8月と、

実際には秋を感じる9月のちぐはぐな感覚を

心理の描写に使っています。

二首目には2人目の子供を得て、いつのまにか進んでいる時間を

抱えているような不思議さがあります。

三首目に出てくる鳳仙花には種が一気に弾ける激しさがあります。

鳳仙花の種で無邪気に遊んでいる子どもの

その対比として「父はさびしい庭でしかない」という

寂寥感があるように思うのです。

■若き日の終わり

若き日の行き詰まるころ甃道にほおずき売りの声はひらめく  *甃道=いしみち    68

 

学生の我はいずこの草むらに消えてゆきしや梅雨の三叉路      101

 

物音の透きとおるまで疲れおり夜更けの卓に梨の皮濡れて     149

かつて描いていた理想とか希望とは

違う現実が日々として続く面もあるのでしょう。

会社に勤務して社会人として働いていると

学生時代とは違う現実を毎日、生きることになります。

「若き日」「学生の我」がだんだんと薄れていくことを

詠んだ歌がときどき見受けられます。

20代なので、まだ学生のときの記憶もわりと残っていて、

でもそれがもう消えていく時期だったことが

静かに歌われています。

三首目の「物音の透きとおるまで疲れおり」といった

疲労の強い歌もよく出てきます。

音が「透きとおる」とは尋常でない感じ。

聴覚でとらえる音を視覚でとらえることで

普段とは感覚のズレがあるように見えます。

細く剥かれた「梨の皮」のうっすら半透明な感じが浮かんで

主体の状態と呼応しています。

■故郷に帰るときの視点

ふるさとで日ごとに出遭う夕まぐれ林のなかに縄梯子垂る      19

 

あみだくじ描かれし路地にあゆみ入る旅の土産の葡萄を提げて   *描かれし=かかれし   22

 

肺を病むひとりを囲みふるさとは深く欠けゆく月かとも見ゆ       186

吉川氏の故郷は宮崎県。

京都から帰省した際の歌も多いです。

進学、就職で離れた故郷を度々訪れたときには

すでにほかの土地に出たため

外部からの視点が加わって、視点の重なりがあります。

一首目の「日ごとに出遭う夕まぐれ」は

住んでいないから気づく視点かもしれない。

二首目は故郷とは違うかもしれないけど、

「あみだくじ描かれし路地」という人の暮らしが根付いている場所を

旅の帰りに歩んでいることで、外部の者の視点を連れています。

三首目は祖母の死をうたった一連。

折に触れて帰るふるさとでの時間は

かつて過ごしていたころの記憶と混ざって

作者のなかに二重の時間を作るようです。

 

    * 

全体として、とても静かで端正。

学生時代からの距離、父や社会人である現実との違和感、

遠く離れた故郷とのバランス、など

自己を取り巻く環境の変化がいくつも重なっています。

 

父になること、子供が育つことと

若き日々や学生時代の感覚が薄れていくことは

表裏一体のもの。

さらに京都と宮崎という二つの土地をもつことで

時間や風土に交差が生まれています。

 

「夜光」という連作など

社会詠が登場してきていることも特徴です。

 

 

塔2017年7月号 5

お母さん東京は胡麻鯖食べんとよやけん久々に食べたいっちゃん   赤木 瞳     P203 

胡麻鯖は福岡の郷土料理らしいんですけどね。

一首のなかでたっぷりと使われた方言がとても魅力的。

一首がまるごと母親に食べたいものをリクエストするときの

セリフになっていて、親子の会話の空気感がうかがえます。

「ん」で終わる語尾のおかげで弾むようなリズムがあります。

終バスを待つ列の末に泣きゐたる異国の男指ふるはせて   川田 果弧     P205

 たぶんたまたま見かけた光景でしょう。

一見して外国人とわかる風貌の男性が、

指を震わせて泣いている様子に気づいてしまった。

耐えきれずに泣いている原因はもちろんわからないけど、

なんとなく想像させる歌です。

「指ふるはせて」というディティールで

泣いている人の心情を想像させます。

「終バスを待つ列の末に」という場面設定によって

泣いている男性の悲壮感が増しています。

空き地にはタンポポ色のカーディガン誰の心をさらってきたの   深山 静      P208

タンポポ色」という色の表現がよくて、

空地のなかにぱっと咲いたような黄色の鮮やかさがすぐに浮かびます。

カーディガンの持ち主はたぶん困っているかもしれないのですが、

「誰の心をさらってきたの」という問いかけで

とても柔らかい雰囲気の一首に仕上がっています。

泣くまでにもう少し掛かる友のため駅まで歩く花冷えの夜    魚谷 真梨子     P211

友達と一緒に駅まで歩いているのだろう、と読みました。

「泣くまでにもう少し掛かる」という点がとても魅力的で

友達の心情をうかがいながら、

寄り添っている主体の優しさがわかる内容です。

「花冷えの夜」という状況もよくて

もう春なんだけど一時的に冷える夜であることで

一首のなかの空気感が伝わります。

塔2017年7月号 4

花の図鑑、ではなくて葉の名前知るためだけの図鑑がほしい      石松 佳    P160 

 花の図鑑はいろいろあるけど

葉に注目しているところがとてもいいと思います。

「花の図鑑、ではなくて」の読点でちょっと目を引いて、

そのまま次の内容へと引っ張っていきます。

どのページをめくっても

いろんな葉が並ぶ図鑑、

花とはまた違う魅力があります。

立ち漕ぎの自転車の子がパーカーのフードをかむるほどのはるさめ   篠野 京   P189 

 「立ち漕ぎの」といった注目に作者の視点のよさがあります。

「パーカーのフードをかむるほど」といった具体的なもので

春の雨のおだやかさを想像させるあたりに広がりがあって、魅力的な歌です。

「はるさめ」というひらがなの表記も歌の雰囲気と合っています。

数が名をなす不思議さを便覧にしみじみと見き直木三十五    福西 直美    P189

数がそのまま名前になっている人名ってたしかにあって

とても不思議な感じがします。

直木賞の名の元になった作家の名前をもってくることで

代々、賞のなかに根付いている名前の重さをも感じます。

しろい火、とどこかで言えり夕闇のひとところ雪柳しだれて   中田 明子   P189

夕闇のなかで垂れている雪柳は

たしかに白い火のようです。

闇の濃さと雪柳の白さの対比が美しい。

「ひとところ雪/柳しだれて」の句またがりも

静かな緊張を伴います。

ジャガイモはもう植えたかとたずねあう花のさくころまでのあいさつ     高原 さやか     P 199

ジャガイモを植えたかどうかが挨拶、というのは

農業をやっている人ならではの感覚があって

興味深い内容です。

お互いに「たずねあう」というあたりに

おなじ季節を生きているもの同士、と言った感じがあります。

下の句のひらがなの多さで

やわらかい雰囲気が出ています。

塔2017年7月号 3

蟻一匹見つめつづけて愛せるか 隣には君がゐて春嵐   福田 恭子 P115 

 妙に気になるのだけど、うまく良さがわからないときってよくあります。

「蟻一匹」とはとても小さな命、

「見つめつづけて愛せるか」はだれに言っているのか、

主体が自分に向かって言っているのかもしれない。

隣にいる「君」との関係のことを言っているのかもしれない、

と思い至り、すこし不穏な感じがします。

「蟻」という小さなものと、

「春嵐」という大きなものを対比している構図も

興味深いつくりです。

電線を延べて作りしスプーンの柄にはかすかに模様の彫らる   岡村 圭子 P129 

 どうも舞鶴で戦後の引揚の展示を見た一連のようです。

舞鶴市には引揚記念館があるらしいし、そちらかもしれません。

説明的、レポート風にならずに描けるかどうか、力量が出る一連です。

食事につかうスプーンを「電線を延べて」作るということは

まさに非常時のありさまの一つでしょう。

そしてそのスプーンの「柄」に

ちょっとした「模様」があることに注目していることで、

当時の人の生活へのまなざしがいきた歌になっています。

音楽を満たして仄かに発光すライブハウスは夜の水槽   杉原 諒美  P129

ライブハウスはあんまり広くないことが多いような気がします。

ミュージシャンと聴衆、楽器の音と熱量がすごくて

ライブハウスのなかってたしかに発光しているみたい。

ただ「仄かに」とした点が、いまひとつ合っていない気もします。

結句で「夜の水槽」としたところが美しくて

暗闇のなかで光っている鮮やかさがすぐに浮かびます。

園児らは手を上げ道を横断中くの字くの字の連なりゆけり   水越 和恵  P145

とてもかわいい一首です。

園児たちは教わった通りにきっちり手をあげて渡っていくので

ちょっと離れた位置から見ていると

「くの字くの字」の連続に見えるのでしょう。

ちょこちょこ、みんなで渡っていく様子が浮かんで

映像が浮かぶ一首です。

この島ですることをして出て行くよ。かばんをよろしく日の出が近い  吉田 恭大 P154       *「吉田」の「吉」は上が土です。

そろそろ別れの時期だとわかっている心情なのだけど

湿っぽい感じがなくて、さらっと言っている感じが印象的。

出て行くよ。(意志)+かばんをよろしく(依頼)+日の出が近い(事実)の

3つをぽんぽんぽん、と並べていて

2番目の依頼の部分に相手への感情がみてとれるし

なんとなく主体の体温を感じる気がします。

塔2017年7月号 2

すんなりときたる諦め飛行機が雲をやさしく伸ばし続ける   宇梶 晶子  P25

何かをあきらめる感情が思っていたよりもすんなりやってきたことと

空に伸びていく飛行機雲の組み合わせに惹かれました。

飛行機のあとに長く伸びつづける雲や青い空のイメージがあるので

どこか爽やかな印象すらあります。

ただ「すんなりと」と「やさしく」はやや説明過多な気がして、

どちらか一方だけでもよかったかもしれないです。

日曜のぬくき居間より落花生の大き袋と夫の消えおり   山下 裕美    P35

日曜の「ぬくき居間」は居心地よさそうなのに

いつのまにかいなくなっていた夫。

「落花生の大き袋と夫の」と並列になっている点が面白くて

どちらもさっきまでいたのに、

「消えおり」となっています。

長年一緒に暮らしてきたご夫婦の空気感がうかがえます。

史書に鉄器が出現しはじめるページをめくりプリンをすくう    荻原 伸  P37

史書を読んでいて、時代は人類史に鉄器が登場するあたり。

でも主体は柔らかいプリンをスプーンですくっている。

鉄器という硬い物質と

プラスチック容器に入ったプリンという対比が面白くて、

ちょっとゆるい雰囲気を感じます。

村はずれの橋を渡りて末つ子のかならず帰ると言ひて逝きしと  中澤 百合子   P97

すぐ前には「戦争に末の男の子を逝かしたる祖母は日毎に小さくなりいき」

という一首があります。

末の息子を戦争に取られてしまった祖母が

最期まで帰ってくる、と信じていたという話に胸打たれます。

「村はずれの橋」という初句がとても印象的で、

こうあってほしい、という祖母の願いと

現実をつなぐ橋であったと思うのです。

アカシアより始まる校歌のアカシアに気づかざるまま思春期過ぎにき    西川 啓子 P105

「思春期」なので中学か高校の校歌だろう、と思います。

アカシアには「友情」とか「豊かな感受性」といった

花言葉があります。

実際に校歌を歌っているときには気づかなかった

価値や意味にだいぶ後になってから気づいたのでしょう。

あるいはアカシアの黄色の花の華やぎに象徴される

若さの価値をあとで振り返っているのかもしれない。

単に「校歌」だけではなくて、

もっと広く学校生活全体のことを

指しているのかもしれません。

大らかな上司数名ありしこと米炊く湯気のように思えり    山内 頌子   P107

ほかの詠草を見ていると、おそらく仕事で

叱責を受けたときの心理なのでしょう。

上司にもいろんな人がいて、

「大らかな上司」はほんの数名だったのでしょう。

過去形なので、いまはもうその人たちは

上司ではないのだと思います。

思い返せば「米炊く湯気」のような記憶であること。

働くことの難しさとか

それでも毎日の繰り返しがあることを

うかがわせます。