波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

塔2017年2月号 2

作品1からいつくか。

たくさんの滴ふるえて流れゆく車窓は遠い額縁である       芦田 美香  P26 

雨天のときに電車に乗っていると
車窓をたくさんの滴が流れていきます。
かなりのスピードなのでけっこう激しい動きになることもあります。
「車窓は遠い額縁である」という下の句に惹かれました。
雨の滴がたくさん流れていく窓、
「遠い」という語は解釈が難しいのですが、
現実に起こっていることに実感がわかないのか、
なにか考えがまとまらないのか、
ちょっと気持ちの定まらない不安定な感じが伝わります。

 

 刈田には藁の乳ふさ戈麦の詩句に指されてさう見たりけり  *戈麦=ゴーマイ           出 奈津子   P26

稲を刈った後の田に藁が積まれている状態を
「藁の乳ふさ」といっていますが、
それは「戈麦の詩句に」影響されてそう見えるのですね。
戈麦は中国の詩人ですが、残念ながら
具体的な作品を知らないなぁ。
文学作品の中に出てきた表現を
現実の景色の中に見出した瞬間を詠んでいて、
だれにでもある瞬間ながら
「詩句に指されて」という表現に鋭さがあります。

二百個を摘みても檸檬は空にあり一言ごとに香りを吸いつ       塚本 理加    P31

前後の歌を見ていると、どうも閉園予定の果樹園(?)で
檸檬を取っているようです。
たくさん実っている美しい檸檬
とってもとってもなかなか減らないようです。
「一言ごとに香りを吸いつ」はたぶん
だれかと会話しながら採取していて、
なにか話すたびに檸檬の香りを吸ってしまう、という意味にとりました。
青い空と檸檬の色の対比も浮かんできます。
さらに採取する側の心理などが重なると、
とても複雑な景色に思えます。

たった緯度三度の移動に船・列車・再び船と乗り継いで行く     ほうり 真子       P33

リズムが悪くなりそうだけど、
繰り返される音の連なりがとても気になる歌です。
特に「たった」「緯度」「三度」「移動」という
音がとても面白い。
濁った「ド」という音が出てくることで
なんだか落ち着かない気持ちも出ているようです。
詠草を見ていると、父親が亡くなったので実家に戻る旅だったようです。
「たった緯度三度」とはいえ
いろんな交通機関を乗り継いで行く忙しなさが
音や語順にも出ている歌です。

看取りケアに入りたるひと竹の葉の返すひかりにときおり笑う    山下 裕美    P34

介護施設で働く方の歌で
時には看取りケアの担当もあるのでしょう。
「竹の葉の返すひかりに」がなんだか切ない。
「竹の葉」の細長い形状に反射する光、
最期に向かっていく時間のなかで
ささやかな輝きを一緒に見ている主体の視点があります。

遠く暮す子にふれたがるてのひらに辿󠄀りゆくための窓ほどの地図     しん子   P52

「子にふれたがるてのひら」
「窓ほどの地図」といった表現が印象的です。
「窓ほどの地図」ということは、
わりと大きなサイズの地図を貼ってあるのかな、と思います。
離れているのでなかなか会えないけど
かわりにお子さんが住んでいる地域の地図に
触れて辿っている、そうとらえました。
寂しい、といった語を使わずに
心情を十分に伝えている一首です。

夜遅く雨になるとふ天気図の傘のあたりに子は棲みてをり     澄田 広枝     P53

こちらも遠方に暮らすお子さんのことを思っている歌。
天気図を見ていて気になるのは
お子さんが住んでいる地域の天候なのでしょう。
「傘のあたりに」がとてもいいですね。

塔2017年2月号 1

さて、しばらく忙しくしていたので更新止まっていました。
先日の旧月歌会のあとには
美味しいシュークリームを食べていました。
なんとか塔の評を続けましょう。

もうすぐ私は死ぬと言いしか唇のうごきが見えてアレッポの声   吉川 宏志    P2

シリア内戦で反体制派の拠点になっていたアレッポの制圧の際、
多くの市民の犠牲が出たことは記憶に新しい。
ネット上に市民の動画が公開されていて、
それを見たのだろうと思います。
最期を予感しているときの「唇のうごき」を
遠く離れた国で見ている主体。
生々しい「声」を介してしか知りえない現実を切りとっています。

おほかたは偽薬なれど煎じ飲む湯のぬくとさは直接にして   

*偽薬=プラシーボ      真中 朋久   P3

かつて歌会でこの歌の評が私にあたったことがあります。
薬の効能の多くがプラシーボ効果にすぎない、
と冷めた感覚でとらえている一方で
喉の中をながれていく湯の温かさも感じている。
その差異をとらえていて、面白い一首だと思っています。
「直接」という言葉は硬い言葉だけれど、
この歌のなかではとても強い印象を持っています。

ででっぽー眠れんかったんやろお前ぽーぽーぽっぽ小心者や   *者=もん   山下 洋   P3

あぁ、山下さんの歌だなぁ、と思います。
ハトの鳴き声を挟みこむような感じで
短歌の中に詠みこんでいます。
「小心者や」はだれに言っているのか、
ハトの声に託して、
自分に向かって言っているのかもしれない。

てのひらをひらいてみたら死んでゐた雪虫 雪と虫にわかれて    河野 美砂子     P8

冬の訪れを告げる虫といわれる雪虫
ふわふわと飛んでいるけど、わりとすぐに死んでしまう虫だそうです。
雪虫 雪と虫にわかれて」という下の句がとても面白いですね。
特に四句目の「雪虫 雪と」という句割れによって
分離された感じが視覚的にも出ています。

雨あとの苗のごとくに倒れたる付箋は歌集をやわらかくする      永田 紅      P11

歌集を読むとき、気になった歌に貼っていく付箋。
歌集を閉じると、たくさんの付箋が
倒れた苗のように見えたのでしょう。
小説やルポを読んでいても、付箋を貼る機会はありますが
歌集の場合、一首一首がそれぞれ作品なので
付箋を貼った位置には、大事なひとつの作品がある、ということになります。
たっぷりの付箋がついた歌集には
気になった歌がたくさんあるという証。
「歌集をやわらかくする」という能動的な表現で
大事な一冊になった、という満足感が出ています。

 

塔2017年1月号 5

天敵のない生きものにある自殺 アクアリウムに揺れる水草       加瀬 はる    P170

「天敵のない生きもの」とは人間のことでしょう。
文明をつくり、他の生物から脅かされることが減ったけれど
自ら命を絶つこともある人間。
水槽のなかでゆっくり揺れている水草の頼りなさを
対比として置いておくことで、儚さを感じます。
三句目も結句も名詞で止めているので、
上の句と下の句にポイントが分散してしまいがちです。
構造はあんまり評価していないのですが、
取り合わせが印象に残ります。

液晶の青の底より見上げおりとおき水面にゆれる路線図        神山 倶生    P170

視点の設定が気になったので取り上げてみます。
スマホの液晶画面だと思うのですが、水面に見立てることで
液晶(水面)の底から見上げる視点を作り出しています。
ずっとスマホを見ている人間とは逆方向から
見ている視点がある、という想像が少し怖い。

「海までの近道」とやじるし書いた人 いまこの町にいるのだろうか    紫野 春   P172

「海までの近道」なんて、ちょっと気になる。
だれかが書いた落書きのような矢印に
主体は、矢印を書いた人の、今いるところに思いをはせています。
誰かが残していった気まぐれの断片みたいな「やじるし」
主体も「海までの近道」に惹かれる気持ちがあるから
下の句の発想が生まれるのでしょう。

 

塔2017年1月号 4

逸らさずにひとを見つめる眸、それは古き写真にしずもれる井戸   *眸=め   中田明子  P118

写真を見ているシーンかな、と思いました。
写真の中に写っている人は逸らさずにこちらを見てくる。
あるいは本当に目の前にいる誰かの視線のことかもしれない。
まっすぐな視線と、しずかな井戸とのつながりが
静謐な雰囲気を伝えます。
「眸、それは」という三句目がとても面白い構造で、
上の句と下の句をゆるやかにつないでいます。

スカートの裾の冷えたる輪のなかに立ちつくしおり雨の交差点     福西 直美     P126

女性が雨の交差点付近に佇んでいるシーンですが、
「スカートの裾の冷えたる輪のなかに」というとらえ方が
図形をとらえるような感覚ですね。
なんだか真上からカメラを構えるカメラマンの視点みたいで印象的です。
傘をさしていてもスカートの裾は濡れてしまっている、
その中心にいる人の姿を面白い角度で見ています。

ボーナスがボケナスみたいな金額とヒグマのごとき上司が嘆く     廣野 翔一     P132

「ボーナスがボケナスみたいな金額」というのはコミカルだけど切実。
まぁね、毎日がんばって働いているけどボーナスとか報酬が
願い通りの金額になるとは限らないしね・・・。
「ヒグマのごとき上司」といった表現も軽いタッチで
会社での一コマを切りとっています。

キジ猫をフィジーの猫と聞き違えしばし浜辺の青を思えり     池田 行謙     P134

「フィジーの猫」に聞き間違えたせいで
南太平洋のフィジーの風景を思い浮かべてしまった、という。
妙だけれど、ちょっと楽しい勘違い。
日常から急に別のところに空想が働いてしまう面白さを
コミカルに描いています。
「浜辺を」ではなく「浜辺の青を」という表現で
一気に海の色合いが広がります。

丸岡の餃子が届く日付には夫の書きたるカタカナのギョ      大森 千里    P151 

 丸岡の餃子は宮崎県の人気の高い餃子だそうですね。
通販で買った餃子が届くことを
カレンダーの日付にでも夫が書いたのでしょう。
(美味しいらしい・・・私も注文しようかな?)
「カタカナのギョ」がとても具体的で、分かりやすい。
けっこう楽しみに待っているのかな、とか想像がふくらみます。
語順を見ているとちょっと説明的な印象があるので
「カタカナのギョ」をいっそ初句にもってくるという方法もあるとは思います。

塔2017年1月号 3

春光は明朝体と思うとき文字で溢れる僕たちの庭     千種 創一    P78 

おだやかな春光のまばゆさを「明朝体」という
折り目正しい印象の書体としてとらえる感覚が面白い一首です。
たしかに初々しい感じは「明朝体」かもしれない。
ゴシック体とかポップな書体だと合わないですね。
春の光に満ちた庭は、つまり
文字にあふれる場所に主体には見えるわけです。
「僕たちの庭」という表現もさりげないけど、
小さな共同体のイメージがあり
身近な人とかわす言葉の重なりを
見ている視線の強さを感じます。

きりん草をガラスコップの水に挿し茎にくつつく泡を見てゐる   清水 良郎    P100

きりん草は星形のかわいい黄色い花ですね。
どこかで採ってきたきりん草、
室内でコップに入れて飾ったときに
主体が見ているのは、「茎にくつつく泡」という点が
かえって印象的です。
結句でわざわざ「見てゐる」と言い切っているので
とても細かいところに視線を合わせています。
「コップに挿し」ではなく
「ガラスコップの水に挿し」と表現するなど
とても観察が細かいですね。
ひとつひとつを丁寧に描写していることで
日常の手触りを歌のなかに残しています。 

手裏剣と思って避けたひとことが遠ざかるほど鮮やかになる     高松 紗都子    P106

「手裏剣」なんてなかなか使わない言葉だな、と思って読んでいくと
誰かから言われたキツイ言葉だったことがわかります。
避けた時はうまくかわしたつもりだったのでしょうけど、
後になって「遠ざかるほど鮮やかになる」とは皮肉なことです。
「手裏剣」なんていう現代ではもう使わない武器と
だれもが思い当たるふしがある経験との組み合わせが
とても面白い一首になっています。

学寮に受けし小包み直江津を直江の津と書く祖父からだった     丸山 隆子    P109

学生時代の思い出の一コマでしょう。
祖父からの小包を受け取ったときのことでしょうけど、
祖父がどんな人だったのか
地名の書き方で表現している点がいいと思います。
「直江の津と書く」で祖父のこだわりとか筆跡とか
なんとなく伝わる点があれこれ説明するより
ずっと生身の感じを伝えてくれると思うのです。