波と手紙

小田桐夕のブログ。好きな短歌について。

大森 静佳 「サルヒ」

先日、なんとか手に入れた大森さんの「サルヒ」から少しだけ。
今年の夏にモンゴルに行かれたときの写真と短歌で構成されています。
モンゴル語で「風」を意味する「サルヒ」には
大草原の景色が広がっています。

唇もとのオカリナにゆびを集めつつわたしは誰かの風紋でいい  *唇=くち

攻めなければ、感情の丘。この靴をこころのように履きふるしつつ  

この夏を痺れるばかりに遠くして帽子は何の墓なのだろう 

風が通った後にできる美しい風紋。
「誰かの風紋でいい」というさしだすような言い方で
他のものからの影響を受け入れるような覚悟があります。
オカリナ、というとても素朴な楽器を選択している点も魅力的。

二首目は初句から二句がとても面白い一首。
のどかな草原や遠くの丘。
日本とは全く違う空間のなかで
駆り立てられるような気持ちもあったのかもしれない。
足になじんでくたびれていく靴と心の組み合わせに
なんだかしみじみしてしまう。

「サルヒ」に収められている写真は、大きく空と地に二分されています。
本当に見渡す限りの草原と、人と動物たちの暮らし。
数日間の滞在だから、後からみると余計にまばゆいのかもしれない。
「帽子」という頭にかぶるアイテムが
「墓」と結びつくことで、
どうしても遠ざかってしまう記憶を哀惜しているようです。

 

第8回クロストーク短歌

第8回クロストーク短歌に行ってきたので、ちょっと感想をあげておきます。
あくまで私の感想なんで。いろいろ考えていたら長くなった・・・。

今回は「若い世代の歌をどう読むか」ということで
なにかと「わからん」「淡い」とか言われることがある
20代、30代(くらいかな)の作者の歌をどう読むのか、
吉川宏志さんと江戸雪さんのトークで語る会でした。

吉川さんはだれの歌を見るときでも、かなり丁寧に接する方だし、
江戸雪さんもかなり積極的に若い世代のイベントに参加している方だと思います。
このひとたちの視点から見ると、若手の作品ってどう見えるのかな、と思って参加してみました。

私も若手の作品を見ていて、「?」って思うことは多々ありますが
でもまぁ、新しい世代の作品っていつでも
「わからん」と上の世代からは言われるものだしなぁ・・・。

私自身は若手の作品を読んでいて、
内容が何を詠んでいるのかわからないのでもどかしい感じを受けること、
あとはなんとなくわかるけど、読みごたえがなくて、
とても物足りない感じを受けることがしばしばあります。

 

■「若い世代の歌」の2つの流れ

大きく分けて、2つの流れがある、と言われていました。
生きづらさを抱えている人の歌としてあげられるのが
鳥居さんや虫武さんの歌です。
内容がけっこう重かったり暗かったりするんですが
短歌が内面のつらさを受け止めている感じの歌。
生きづらさや閉塞感を抱えている人からの共感は高そうだな、と私は思います。

私が「生きづらさ」を詠んでいる歌を見ていて思うのは、
芸術とか文学が心の支えやよりどころになることはあるので
それ自体はいいことだと思っています。
ただ境遇とか話題のほうが先行しすぎじゃないかな、と思うことはあります。
作品と一緒に生い立ちなどのストーリーがセット販売になっていることへの疑問や、
感動を割り増しさせるための効果がしばしば気になることはあります。

現代の社会のドライな感覚、淡さや甘さを軽く詠むタイプの歌もけっこう多いです。
岡野大嗣さんや木下龍也さん、土岐友浩さんの歌はこちらでしょうね。
淡白な歌ですが、現実を切りとって巧く詠んでいる、と私も思います。
ただ、巧さに感心する一方で
作者は本音ではどう思っているのか、たまに疑問を感じることはあります。
淡いという以上に、選択された言葉に重みや真実味がなさそう、
と思ったことはあります。

 ■ネットの普及による変化

話を聞いていて面白かったのが
「今はネットでなんでも丸見えになっているでしょう。
ネットで買い物していると頼んでもいないのに
他の商品をおすすめされたり・・・。
なんでもだれかに分析されて見られているから
なんだか秘密の部分、わからない部分を残しておきたい、
という気持ちもあるんじゃないかな」っていう吉川さんの台詞ですね。

たしかにいろんなことが「見える化」されてしまって
鬱陶しい部分はあります。
望まなくても情報が溢れて出回っている反面、
そんなにいらんって、っていう気持ちも出てくるのかもしれない。

自覚があってもなくても、生きている時代や社会の影響って
容赦なしに作品に出てきます。
ネットがあるのが当たりまえの状況で育った世代には
自分を世の中にどれだけ、どうやって見せるのか
考えざるを得ないのかもしれない、と私なら思います。

   *

わかる、わからない、という論争は
その点だけで終わってしまうとちょっともったいないかな、とよく思います。
別にわからなくてもいいんだけど
どのあたりがよくて、どのあたりまで読めて
どのあたりがわからないのか
もうちょっと話をする場がいるのかな、と私も思います。

あと世代によって土台になっている知識に差があるので
もう少し短歌について共有できる知識の集積があるといいのだけど・・・。
仮にあっても使えていないのかもしれない。

ネットの普及で短歌を始めるのも
短歌の友達を探すのもだいぶ簡単になったけど
似た者同士を集めるくらいで終わっているのかもしれない、
と感じることがたまにあります。
似た者同士のシンパシーのやり取りで終わって
合わない人の組み合わせだと
あんまり冷静な話し合いにならないのが
残念だな、ってネットを見ていて思うことしばしば。

   *

塔12月号が届いて読んでいたら花山周子さんの
「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」が載っていました。
世代間の差に見える短歌の違いが、
近代文学としての短歌と、伝統文芸としての短歌との差異」ではないか、
という指摘や分析が面白い文章でした。
まだ続く文章のようですから、次号を楽しみに待ちます。

 

一首評 「素足」

大いなる薔薇と変はりし靴店に素足のままのきみをさがせり    
      水原 紫苑 「湖心」『客人』    

 

靴店に素足、という点が意外な感じで気になりました。
新しい靴を探すときに、いちど素足(少なくとも靴は脱ぐ)になることを
踏まえて詠まれているのではないかな、と思います。

「大いなる薔薇と変はりし」は幻想的で不思議なイメージですが
薔薇の幾重にも重なった花びらを考えると
一度入った後、選ぶべき靴にあれこれ迷って店から出てこない、
みたいな感じかな、と思いました。
複雑なフォルムをもつ薔薇の花と
「素足のまま」との対比も面白い構造です。

読む人によっていろんなイメージが膨らみそうです。

塔2016年11月号から 11

11月号の紹介、終わったなーとか思っていたら月集をとばしていますね。
いや、別にわざとじゃなくて思いつきで新樹集から始めた都合、
次のページに進んでいっただけです・・・・。

ネクタイをまた締めてゆく秋となり小鮎のような銀で挟めり   吉川 宏志   P2

たしか歌会で見て、わぁいいなぁと思った記憶があります。
ネクタイを留める「小鮎のような銀」がポイントで
詩的な美しさがあります。
ネクタイという縦長の布が
なんとなく川に思えてくるから不思議。

人称はまだ僕でいい稲妻が遠くのビルを撓らせている     永田 淳   P4

「人称はまだ僕でいい」
これは息子さんへの言葉かな、と思いました。
男の子は自分のことを僕、俺、私など
言い方が年齢によって変わっていくので
どんどん大人になっていくのを
見守りながら同時にそんなに急でなくていい、
と思っているのかもしれない。
鳴っている「稲妻」はそのうちやってくる
困難を暗示しているみたいで、
相手を見つめるまなざしとか不安が
混在している一首だと思います。

十二人の手配写真の男らとともに待ちたり次の電車を     松村 正直   P4

映画のワンシーンでありそうだな、
と思って楽しく読んだ一首です。
「十二人の手配写真の男ら」っていうのがいいですね。
主体もそのなかにまぎれているのが
なんだか面白みがあって、
日常のなかに発生する偶然を
切りとっていて、コミカル。

墓石と墓石の間を埋め尽くす雪ありにけむ長き戦後の      梶原 さい子   P7

ここしばらく、梶原さんの詠草では
ロシアを訪問した歌が続いています。
とても興味深く拝見しました。
今回は日本人墓地を訪れた時の歌。
墓地を訪れて、見ているのは現在の風景と同時に
その地にながれた歳月の長さでしょう。
墓石の間にあっただろう雪の多さと
戦後の時間の長さを
重ねていて、重みのある一首です。

しづけさは遺品のやうだ八月の窓のかたちとそれを満たす陽     澤村 斉美   P10

「遺品」という言葉がおごそかで
夏の終わりを感じる歌です。
まだ暑いけど、確実に終わっていく夏。
「八月の窓」は額縁、
強い陽のひかりは遠い思い出みたい、と感じます。

両手のばし背を反らせる木彫の猫のあらがふうちなる固さ  *背=せな  万造寺 ようこ P13  

実に面白い視点の歌です。
木彫の猫のなかに、実は本物の猫がいて
外に出ようとしている、みたいな面白さがあります。
猫の置物の描写も的確で
すぐにフォルムをイメージできます。